Thursday, August 31, 2006

翻訳教室

 東大文学部の講義、翻訳演習の書籍化である。授業内容をそのまま文字化した本書であるが、授業を受けている雰囲気や臨場感が懐かしく感じた。受けてみたい授業の上位3位以内に入る好感触であった。大学入試の参考書、実況中継シリーズといえば分かり易いかしら。例えとしてはチープな感は否めないが。

Amazon.co.jp: 翻訳教室

 一気に読み干してしまった。作者の言うように、課題英文を自分で翻訳し、それから例訳を使って修正してから、疑問を持ち、講義内容を読んだほうがずっとよいと思う。が、しかし。読み出したら止まらない。そうせずとも、なぜここに「ひっかかる」のか、なぜここはすんなりいくのかということが伝わってくる。この、予定調和のないやりとり、これは先の実況中継シリーズと対比しているのだが、それがいい感じに読み手を刺激しているように思う。
 私は、翻訳業務ではないが、仕事でローカライズ業務に翻弄された時期がある。そのときの経験があるから、課題英文を翻訳せずもその雰囲気をうまく掴めたのかなと思う。多く文中に出てくる、「重い・軽い」、「リズムがいい・悪い」など、野球でいうと「キレのある球」や、サッカーなら「今のは決定的でしたね」などという分かるようで分からない言葉をすんなり受け入れることができた。これが、面白さを倍増させたのかと思う。

 この本を読んで思ったことに、著者はイメージを多用していることがある。最近、新しい英語の教授法として「コア・イメージ」や「マインド」といったものがあると思うが、この授業だとこれが効果的に使われている。英文和訳はさんざんやってきたが、訳している時に楽しさはMAX。授業自体を楽しいと思ったことは少ない、というか、ない。レビューに問題があったと思う。しかし、この本が面白いと思ったというこは、レビュー内容、つまり、授業内容が面白いということだ。
 正直、学生時分にこの授業はキツイ。でも、なんとなく授業という感覚が薄いというのも、私が感じたところだ。それは議論があったからだと思う。
 この授業の素晴らしいところは、目指す方向性がはっきりしているところだと思う。先生も、本音かどうか分からないが、生徒の意見に唸り、感服している姿はいい雰囲気作りに必要不可欠だと、私は思っている。

 これは「翻訳」だから、より強く感じることなのかもしれないが、日本語力って必要だなと、改めて思う。本中にも「漢語と大和言葉」というのが出てくるのだが、私はどのように区別するのか分からない。昔、外国人の友達に「日本人なのに知らないの?」と揶揄されたのを思い出した。ちなみに、「音読み、訓読み」も全く区別できない。はぁ~

Tuesday, August 29, 2006

ムダで儲ける会社

 昨日のカンブリア宮殿は面白かった。久しぶりに偏頭痛に襲われたが、それを抱えていても集中できる面白さだった。ゲストは松浦元男氏、樹研工業という、私ははじめて知る企業の社長だ。チョット前に、世界最小の歯車を開発した企業といえば「そういえば、そんなニュースがあったなぁ」と思い出すかもしれない。その会社の社長さんなのだが、この人の姿勢・スタンスに非常に共感した。内容は番組ホームページにあるのでそれを参照してもらいたい。

カンブリア宮殿:テレビ東京

 松浦氏は、確かに経済やマーケット動向を読む力に長けている部分があるが、それ以上に社員教育の部分で感銘を受けた。松浦氏の考え方は、性善説の考えに沿っているという。そして、誰にでも他人より長けた部分があり、それを伸ばし見つけることが社長の仕事だと断言しているという言葉に感銘を受けた。それは、入社条件にも現われている。
 入社条件は「先着順」だという。履歴書不要、入社試験、面接なし、純粋に先着順だという。ありえない。一般的な考えからいうならば、少しでも有能・優秀な社員を確保したい。しかし、社長の考え方は先に述べたように、「誰でも人より長けた部分を持っている」のであれば、そんなものは不要だし、「たかだか数十分でなにが分かる」という言葉も重みが違う。

 オーディエンスの質問で「結果の出ない社員の処遇はどうしていますか?」という質問があった。それに社長は、「結果の出ない社員がいないので分かりません」と答えた。この人はすごいと思った瞬間でもあった。彼は続ける。「1ヶ月や半年で、得意分野が分かる社員もいるが、3年、4年と模索する社員もいる。しかし、必ず、その人の長けた部分が見つかる。」
 この言葉のすごいところは、結果を出せる得意分野の模索に期限を設けていないところだ。
 一般的に、「何年目までにはなにを」と期日を設けて、それを過ぎてもダメな場合「結果が出ない」とされる。しかし、それをしていない。
 これまた一般論だが、期日を設けることで尻を叩き、やる気を鼓舞しているのだが、松浦氏はこれを社員には分からないように行っているそうだ。私はこの部分にいたく感銘した。私が考える「ゆとり」と同じ定義だったからだ。

 この考えをどのように実現しようか悩んでいたが、松浦氏にヒントがありそうだ。Googleさんに問い合わせたところ約20,000件ヒットした。そのひとつに読売新聞のインタビューの記事があった。

第1回) 樹研工業 松浦 元男社長 減点恐れたら 新技術ない : グローカル : 中部経済 : 中部発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 番組中にあった、「一流は失敗を恐れる、三流は恐れない」という言葉は、どこか歯がゆいが、的を得ている言葉だとも思う。そして、自分自身にとっても耳が痛い言葉である。この人の人間性というものも、この会社が結果を残せた大きな要因だと思う。
 「非合理的なことが、実はもっとも合理的だ」番組はこう言いたいのだと思う。感覚的にはなんとなく理解できても、言葉にするのは難しいし、不確定要素が多い。しかし、不確定要素を省いていった結果が、現在の合理主義である。この不確定要素の研究を望む。

Tuesday, August 15, 2006

なぜ子どもに英語なのか

 小学校への英語教育の導入はさまざまな意見が交錯している。「国際語である英語は、これからを生きる人たちには必須のスキルで数学や歴史となんら変わらない」、「言語習得には臨界期があり、小さいうちから英語を習わなければものにできない」、「英語を理解することで国際的感覚が磨かれる」など肯定的な意見と共に、「日本語がおろそかになる」、「全ての人に英語が必要なわけではない、それより基礎をしっかりと固めるべきだ」、「偏った国際感覚が身についてしまうのではないか」といった否定的な意見も多数である。

Amazon.co.jp: なぜ子どもに英語なのか―バイリンガルのすすめ

 この「なぜ子どもに英語なのか」は、小学校英語教育を反対する大津氏の「小学校でなぜ英語?」に反旗を掲げるスタンスで書かれている。つまりは、小学校英語教育へ肯定的な意見をもった著者により書かれている。唐須氏は慶應大学の教授で、大津氏の同僚ということになるが、そのような立場の人間が真っ向勝負を挑むような形が面白いと思い、本書を手にとった。

 この本は、一貫して経験を元にして書かれている。この経験は筆者の子どもたちがほとんどなのだが、先に述べたような幼少から英語に触れることが国語力や日本語力にマイナスの影響を与えることは全くないとし、ましてや、ことばに関してより鋭敏な感覚を養うことができるとしている。2ヶ国語できることは、それ以上に相手を理解する気持ちや、コミュニケーションの場合においても開放的な気質を養うとしている。

 著者は小学校英語教育とバイリンガル教育を同列として考えている点が面白い。もちろん、小学校英語教育導入の理由としてはこれが希望であり、目標でもある。本書の内容は、以前、私も考えたことがあることが非常に多く載っていた。「英語で授業を行う」というのは、かなり、反感をかった意見だが。

 残念ながらこの本には、公立学校での事例や改善点などが書かれていない。言うは易し。具体例を挙げねば、反論の価値がない。経験は確かにどんな実験よりも確かなものだと思うが、背景が記されていなければこれもただの世間話の域をでることがない。著者の子どもたちがアメリカンスクールにいたときの感想として「たのしい」という言葉が多く見られた。なにが楽しいのだろうか?ひとえに楽しいといわれても彼らの思った楽しいが、私の思う楽しいと重なるかどうか分からない。これのオンパレードではどうにもならない。

 ただ、著者が言うように、変わらなければ「失敗」も「成功」もない。教育界では失敗できないと、改革を遅らせる要因が多々ある。これは、子どもたちを実験台にすることができないという考えからだ。しかし、それに捕らわれすぎて、何もやらないのでは話が違う。インターナショナルスクールとの交流などはすぐにでもできることではないだろうか?私もこのことはなぜやらないのではと思っているのだが、いろいろあるのだろう。

 そして、最後にこの本を読むと、日本にいてバイリンガル教育を受けるメリットというものも妥当性があるように思える。大津氏の本も読んで、相互的な感想を書きたい。

Bloggerが鬼のようにバージョンアップしている

 今日、Bloggerにアクセスしたら、なにやら微妙に画面が違う。日本語表示されない。なぜ?と思ったら、ユーザ名とパスワードを入力するところにBloggerアカウントとGoogleアカウントで利用可能ですよなんてことが書いてある。

 それでSignificant Blogger Upgrade - Freshblogを見つけた。カテゴリーとラベル機能が実装されたそうな。そのほか、エディタもカイゼンされている模様。これからヘルプを熟読します。

Saturday, August 12, 2006

探検!ことばの世界

 激しい雷は、なにか空の悲鳴のように思えてならない今日この頃です。もろい交通機関に翻弄させられるのは歯がゆいですが、それに依存しなければならないのは世の常。幸い、せわしい日常での出来事でなかったのが、不幸中の幸いか。しかし、楽しいレジャーの予定がゴチャゴチャしてしまうのは、いささか難儀かな……

 さてさて、大津先生の「探検!ことばの世界」という本を読んだ。これがなかなか面白い。

Amazon.co.jp: 探検!ことばの世界

 この本を知ったキッカケは、今年の春スクのときでした。英語科教育法のスクで、ことばへの興味喚起というお題のディスカッションのときに、指導教授が話していたのを最近、なぜか、ふと思い出して図書館に走った。

 平易な語りで、面白い例が多く、私のような「国語嫌い」が読んでも惹き込まれる。私のような「国語嫌い」だからこそ惹き込まれるのかもしれない。英語学で、生成文法を知ったときから、これは理系思考の人にはソソラレル内容だと思った。ちなにみ、私は理系人間である。腐れ縁の友人、彼も理系思考で同じように英語教育を志したものの断念したが、同じように興味を示したといっていた。サンプルが少なすぎるが傾向は強い。データマイニングを専攻していた同僚も、生成文法は面白いと言っていた。内容はそれを包括している。

 そして、もうひとつ、分かり易い例が多い。中学・高校生向けらしいが、英語の知識(なにも高度な知識が必要というわけではない)があるとなおさら面白さが増す。国語についても同様。動詞の活用形なども、私はひとつひとつ疑問も持たずに覚えていた口だ。この本のような切り口をしている先生もおらんかったし、友人もいなかった。学生時代にこの本にであっていればと思った。

 この本の目的は、「ことば」への興味喚起である。十分にその目的を果たせると感じた。語学学習の一番のモチベーションは「興味」だ。英語ばかりでなく国語にも影響大だろう。

Thursday, August 10, 2006

国家公務員は子育てで半日勤務OKらしい

 ざっと記事を読んだかんじでは「良案」のようだ。ほとんどの人が常々考えていたワークシェアリングの考えだと思うのだが、これがまともに運用され、機能すれば安心して働けるような気がしないでもない。

 現場を離れると、どうしてもリハビリが必要になる。昔の仕事振りに戻るまでに相当の時間がかかるし、思考のプライオリティが変わってしまう(仕事中心から子育て中心へ)ので、一概に昔の自分に戻れるわけではないと思う。もちろんそれがマイナスの働きになるわけではない。むしろプラスに働くことも多いのではないだろうか。

 しかし、企業というものは短期的な結果を期待する生き物だ。そして、変化を極端に嫌う。昔のままでいて欲しいと願うのではないか。これならば、浦島太郎になることもないのではと思う。これは母親のみなのかしら?

Wednesday, August 09, 2006

英語が嫌い?否、英語の授業が嫌い | 保護者に対するアンケート結果

 最近、良くも悪くも表に出てくる山形県。その山形県で英語授業のカイゼンを図るべく元生徒である保護者にアンケートをお願いし、過去の教育方針の検討をするというからよい傾向だと思う。

保護者半数以上が英語嫌い 訳読中心の授業が原因か(山形) : 学力・授業・部活 : 地域ニュース : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 しかし、記事を見る限り保護者は「英語が嫌い」とは言っていない。英語の「授業」が嫌いだったと言っている。英語に関してはむしろ好きというか、モノにしたいと思っていたのではないだろうか?と、個人的には読める。
 中学・高校生の時、英語の授業は嫌いだった――。県教委が、小・中学生の子どもを持つ親を対象に、かつて自分が受けた英語の授業の感想などをアンケートで尋ねたところ、回答した親の半数以上が良い印象を持っていないという結果が出た。県教委は、「英文を音読して訳す授業の仕方が原因だったのでは」と分析。過去の授業の問題点を洗い出し、今後はリスニングや実践的な会話などに力を入れる方針だ。
 しかしまぁ、安直といえば安直な結論の出し方になりそうである。これはいわゆる市場調査という位置づけだと考えているとすると、恐ろしい方向へ進むのではないかと危惧する。
 従来の英語教育が“不評”だったことについて、県教委は、読み書き中心の内容にあると判断。「保護者は、会話を中心にした授業で、日常的な平易な英語を使えるようになることを望んでいる」として、報告書に反映させる方針だ。
 「日常的な平易な英語」ってのは、最終段階の英語レベルだと思っているのだが、いかがでしょうか?このレベルの英語をいつまでに獲得してもらいたいかといった時間軸が記されていないので微妙なところだが、高校卒業時でこれを満足させるには、中学の段階でかなり頑張らないと無理なのではないだろうか。かなり頑張るとはどのくらいかというと、おそらく、現状の高校レベルを中学の段階で完全に終わらせて、後は実際に運用しズレを直す、定着させる時間に費やす必要があると思う。それくらい、実際に使う時間が必要だと思う。

 体系的なかつ継続的な学習ができるようすることが、一番の近道と思っているのだが、どうでしょ?

Sunday, August 06, 2006

論理的思考と日本的情緒 | 「教えない」英語教育を読んで

 週末を利用して市川力氏の「教えない」英語教育を読んだ。非常に面白かったが何点か腑に落ちないこともあった。

Amazon.co.jp: 「教えない」英語教育

 まず「教えない」という言葉に非常に惹かれた。私も学ぶことに必要なことはモチベーションだと思うし、それ以外ないとも思っている。英語「を」から英語「で」という言葉は非常に分かり易い言葉である。そして、「子ども英語」と「大人英語」という分け方も目新しかった。「子ども英語」は興味喚起を総括した言葉で、「大人英語」は論理的に英語を理解する、旧来の英語教育の内容を意味している。

 全てにおいて理にかなっているし、うなずけることばかりが並んでいたので非常に有益な書物だと思ったが、もうひとつレベルを上げて考えてみると日本的情緒を捨ててしまうのかという、非常に厄介な問題もあるように思う。

 市川氏は小学校英語教育に反対している有識者のひとりだ。小学校では母語で論理的に考えられるようにすることがもっとも優先順位が高いことで、外国語(英語)は興味喚起の手段の一つに過ぎないと、極端な解釈をすればそうなる。

 論理的に考えることは、母語を修得するのとは条件が違いすぎる外国語修得に際しては必要なスキルであり、外国語を運用するために、要は英語を使う場面で相手の話を聞き、理解し、返答する際のスキルでもあり、外国語に携わる際に気っても切り離せないスキルになる、そういった理由で、母語での論理的思考能力を鍛える必要があるという結論になると思う。小学校英語教育反対を掲げる有識者の書物のほとんどはこの流れで書かれていることにも、外国語を修得し、運用するには母語での論理的思考が不可欠と一つの答えを出したのだ。

 最近、フィンランドメソッドなど海外の論理的思考を鍛えるメソッドが注目を浴びている。徹底的に論理思考を鍛えるプログラムであるが、先の国語教育でも日本的情緒を叩き込むことを目標としていたのに、まぁ、キツク言えば失敗しているのに、日本の文化にあまり根付いていない論理的思考と情緒をパラレルで育むことができるのかと思うと厳しいのではないかと思う。

 私が考える日本的情緒というのは、簡単にまとめると「行間を読む」ということだ。俳句なんかがいい例だと思う。絵本などもそうかなぁ。行間を読むということを小学校の低学年から、高校まで旧来の国語教育では行ってきた。しかし、行間を読むということは一様に同じものをアウトプットできるかというと、そうではなかった。よく言われていることは、作者と意図しないことが正解とされ、作者が文句を言ったなどということがよくあるが、行間を読むことにはそれ相応の経験と体験が必要であり、同じ経験をしたとしてもアウトプットが違うことは人として当たり前のことで、それが積もり積もって日本的情緒となったのではないかと思っている。要は行間を読むことは、日本人なら誰でも出来ることではあるが、同じものが出てくるとは限らない、不確実なものなのだ。行間を読むこと自体が日本人らしさの象徴であるので、アウトプットの質は問わないのが本質ではないかと思う。行間を読んで出てきたものに正解も不正解もないということだ。

 行間を読むことの元となるスキルはなんであるか?私は「察する」ことだと思う。これは外国人には、特に論理的思考を体得するための教育を受けてきた人たちにはしんどいらしい。「察する」ことのひとつに共感があるが、外国人はこれが得意である。男女問わずにかなりの確率で正しく共感してくれる。しかし、それには言葉が必要だ。もちろん、ボディーランゲージというものもある。しかし、日本人の「察する」はちょっと違うように感じている。私自身、感じているだけなので、「これがこういうわけで……」と言えないのが歯がゆい。というか、私自身あまり明確に理解していないのかもしれない。ひとつ例を上げるならば、「美辞麗句」だろう。最近は悪しきモノとしてとりあげられることが多い。それは、断定的な判断が必要とされるべきモノに対しても日本人は「美辞麗句」を使っていたからであろう。役人が考える文章のように。けど、「美辞麗句」自体が悪いのではない。使い方を間違えているだけなのだ。そういう私も「美辞麗句」が好きだったりする。

 今まで日本の教育では論理的思考がかなり軽視されてきた。その反動で今はどこでもだれでも論理的思考を強く求めている。問題だと考えるのは、振り子が完全に振り切って論理的思考ばかりに目をやり、日本的情緒は悪しきモノとし排除されていることだろう。確かに、バランスは非常に微妙で繊細だと思う。最適なバランスというのを私は分からない。特に教育ではこのバランスが分からないためになかなか一歩を踏み出せないでいる実情もある。しかし、一歩踏み出してしまえば、なんの迷いもなく、100%で一方に進むのも教育である。危険性はここだろう。だれとてバランスを考える人がいない。いるのかもしれないが、聞こえてこない。書物には批評として反対意見が多数見受けられることもあるが、それは極端な例しか現われない。

 論理的思考の欠点は極端になりすぎて「あいまい」が排除されることにある。予定調和しか認めない風潮は危険だと思う。「ああなればこうなる」となると問題責任ばかりを追及する犯人探しが横行するであろうし、責任転嫁の逃げ道を懸命に探す輩もすでにいる。法の抜け道を探すことがその極端な例であろう。しかし、これが論理的思考の最大の欠点であることを「国家の品格」は呈している。

 もうひとつ。外国人が映画や絵画などのコメントを言うのを聞いたことがあるだろうか?彼らは何かしら明確にポイントを絞ってコメントをする。例えば絵画なら「大胆な筆遣いが力強さを表している。タイトルと呼応して素晴らしいねぇ」などなど。私はこのようなコメントを聞くたびにどうにもこうにも「薄っぺら」く聞こえて仕方がない。そんな単純な言葉で説明できるものなのか?といつも思い、コメントをした人の感受性の困窮さを嘆いている。もちろん、彼らがこのような何かしら必ず明確にポイントを指摘してコメントするという教育を受けていることを知っているので仕方がないことだと理解しているが、それでも違和感が残るのだ。これは、私が論理的思考を教育されていないからなのかもしれない。しかし、映画監督であったり、アーティストがコメントする際はこの限りではない。意外に、抽象的な言葉を使い、「そういうものなのだ」と思考停止言語を使うことも多々ある。しかも彼らはそれを英語で話している。

 論理的思考は絶対に必要なスキルであることは間違いない。しかし、それが絶対ではないことも同時に考えていかなければいけない。日本的情緒を捨てた英語を話せる日本人には価値はあまりないように思えるし、もったいないことである。

Tuesday, August 01, 2006

徒歩暴走族

 しばらく前に見つけた記事です。

asahi.com:バイクに乗らない「徒歩暴走族」 - マイタウン北海道

 ほとんどドリフです。

教育的指導

 これは新しい問題でもなんでもないような気がしているのだが、違うのだろうか?様々なスポーツ関係者は、ずいぶん前から問題視していることだと思っていたのだが……、少し前の出来事であるが重い腰をあげてみる。

asahi.com:「眉毛をそってるから」負け 鹿児島の中学総体 - スポーツ
 鹿児島県中学校総合体育大会バドミントン競技女子団体戦の準々決勝で、眉毛をそっていたことを理由に、試合に勝った生徒を負けたことにしていたことが28日、わかった。その結果、団体戦の勝敗も覆ったという。教育関係者からは「スポーツと生活指導を一緒にしている」と疑問の声があがっている。
 ここで面白いというか、興味深いのは教育関係者から「スポーツと生活指導を一緒にしている」と疑問の声があがったことだ。中学生の練習場としては、大半は部活動だと思う。その部活動は、明らかにスポーツと生活指導を一色にしていると思うのだが、ソレに対してはなんの声もない。

 根本を叩かないとこのような出来事はなくならないし、指導している教諭は混乱する一方だろう。乙武さんか為末さんが教育とスポーツについて言及していたのを聞いたことがある。時代遅れの教育が蔓延る公立。おそろしや、おそろしや。