Monday, December 31, 2007

NHK「変わる教育どうする教育」をみて

 12月28日深夜、NHKで『双方向・夜どおしナマ解説 どう読む激動の2008年』というのが放送されていた。NHKの解説員による討論で、第2部の「変わる教育どうする教育」を見た。

 内容を対立項で示すと2つに絞れる。
  1. ゆとり教育と詰め込み教育
  2. 学校教育と家庭教育

1.ゆとり教育と詰め込み教育
 すっかり常套句となった。あいかわらずことばの定義はひとそれぞれである。話がかみ合っていない。この討論番組でのゆとり教育は、「教える内容を減らしたこと」、「教える時間数を減らしたこと」、「総合学習の導入」としていた感があった。まぁ、よい。事実だからしかたない。

 ゆとり教育と詰め込み教育は、考える力と知識と言い換えられている。不毛な対立だと思うのだが、なかなかなくならない。学力の定義がむずかしいからだ。

 学力とはなにか?なんだろう?私はよくわからない。「成果の見える学力」ということばがでた。「成果の見える学力」とは何か?これがキーワードになると思う。

 まず思いつくのはテストだ。テストってなんだ?テストは合格基準に達しているか否かを判別するためのモノだ。合格基準に達していないものは、もう一度というのが筋のはずだ。日本ではこれを試験という。私の語感では、テストは模試ということばに置換わる。中間や期末などはテストの位置づけだと思っている。先生はそう思わない。試験だ。試験は合否のみを重要視する。なぜ間違えたかなど野暮なことはしない。ゆとり教育のコアはこの部分を改善することだった。番組内での認識はこの部分に集約できる。きちんと理解しているようでホッとした。

 時代の流れは成果主義である。「成果の見える学力」とつながる。先生にも成果が求められる。先生の成果とはなにか?よい高校や大学へ多くの生徒を入学されることらしい。今年は合格者数で偽装もあるくらいだ。イギリスでは学力テストの成績で教員の評価が下されるらしい。番組内の発言ではじめて知った。どうやらうまくいっていないようだ。これを聞いて考え直してもらコトもある。


2.学校教育と家庭教育
 学校教育に何を求めるか?私の認識では割れている。

 学校には集団生活の場がある。なので、社会のルールやコミュニケーションスキルを教えてもらいたい。いやいや、教育格差がないよう、学校でも塾や予備校並みに勉強に力をいれてほしい。このふたつで割れているように感じる。

 私は前者が学校の役割と思っている。もっとラディカルに学校は遊び場でもよいのではないかとも考えている。誤解がありそうだが、勉強もする。しかし、遊び場である。以下の記事がよくまとめられている。

404 Blog Not Found:独学は一人では出来ない

その意味で、今の学校は実に中途半端に思える。まず「砂場」が少なすぎる。午後の授業は必要だろうか。学科として必須なのは母国語と数学ぐらいではないか。二時限もあれば足りるだろう。中学校以降はこれに外国語を加えても、三時限。残りは「砂場」でいいのではないか。

ただし、この「砂場」は望めば学習も出来るようにしておく。ここが肝要である。そこでは子供が学びたいものを、好きなだけ学べるようにしておく。もちろん独学してもよいし、そのへんにいる大人を捕まえて質問攻めにしてもいい。そういう大人が常に出入りしているような場にしておくのだ。「課外授業~ようこそ先輩~-」を毎日やっているようなイメージか。


 私がこの番組でいちばん惹かれたのは中谷日出解説員であった。中谷解説員は「美術や図工」の普及提言をしている。激しく同意だ。なぜか?格差を考えたときに如実に違いが現れるのがこの分野でなかろうか?学習塾に通える、通えないということよりも違いが生まれやすい。家計に「芸術費」などを繰り込む家庭は少ないだろう。その時点で格差が発生している。

 それでは美術や図工の教育効果ってなんだろう?そんなもんは分からない。国語だって、数学だってほんとうは分からない。教えることはできるが、それで子どもが変わるのかどうかは子ども次第。その部分を真摯に見つめなければいけない。

see also
教育に情熱をかける教師のために: 変わる教育どうする教育
教育の窓・ある退職校長の想い:ゆとり教育、是か非か。(日本の悲しい『さが』) - livedoor Blog(ブログ)

Friday, December 28, 2007

内井惣七 『パズルとパラドックス』

 Lewis Carrollが数学者であることを知ったのは数年前である。

Amazon.co.jp: パズルとパラドックス

 ナンセンス本として『アリス』は有名らしい。私はナンセンスが何なのかよく分からない。「くだらない冗談」というくらいの意味だろうか。なぜ「くだらない」のか?冗談の意味が分からないからだろう。冗談の意味は何か?ことばや文化とされているような気がする。「外国人と笑いのツボが違う」という言い方を聞く。本書は「いやいや、それらを差し引いても面白いですよ」という。差し引いて残るもの、論理だ。

 本書は論理の本である。論理パズルであるが、論理でよいだろう。これらの違いがよく分からない。読み進めるとゲーデルの不完全性定理にたどりつく。不完全性定理に耐えられるだけの下ごしらえもしてあると思う。

 本書で残念なところは、関西弁?大阪弁?で書かれていることである。『アリス』と論理を絡めた、この手の本はいくつか確認しているのであるが、縦書きではなかったと思う。縦書きが本書を手にした理由に含まれている。しかし、横書き以上に関西弁がストレスになった。

Tuesday, December 25, 2007

天外伺朗 / 茂木健一郎 『意識は科学で解き明かせるか―脳・意志・心に挑む物理学』

 天外伺朗氏と茂木健一郎氏との対談本である。「不思議な組み合わせだ」というのが、私の感想である。Googleさんに問い合わせてみるとそうでもないらしい。

Amazon.co.jp: 意識は科学で解き明かせるか―脳・意志・心に挑む物理学 (ブルーバックス)

 本書をつきつめてまとめると、意識をどう捉えるか、それが問題だという。わかりやすい。タイトルままである。

 コトの発端は量子力学としている。なぜ量子力学なのかというと観測問題がキモである。これが活性剤であり、ワルさをするトリックスターだ。なので、量子力学が本書の大半を占めている。これはこれで、私は有意義であった。本書を科学史としてみると面白いと思う。

 全く関係ないが、本書pp.83-85にある熱力学の第二法則の好例とされる、グリセリンの中で拡散するインクの実験を見たことがある。現在は削除されてしまっている。残念。

橋爪大三郎 『はじめての構造主義』

 「はしがき」に

ちょっと進んだ高校生、いや、かなりおませな中学生の皆さんにも読んでいただけるように、書いてみました。(pp.3)

とあるように読みやすい。

Amazon.co.jp: はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 「読みやすければよいのか」といわれると閉口してしまうが、「はじめて」という冠をつけているのであれば、とにかく読んでもらわなければはじまらない。本書は目的を果たしている。

Sunday, December 23, 2007

福澤一吉 『議論のレッスン 』

 論理学の本かと思って読んでみたが、ディベートの本だった。

Amazon.co.jp: 議論のレッスン (生活人新書)

 私はディベートには興味がない。興味はないのだが、身につけたいスキルと思う。なぜ、身につけたいスキルなのかは、本書pp.32の「大学教員には議論スキルがあるか」に書かれていることに問題意識を感じており、どうにかできないものかと思っているからだ。そこにはこのように書かれている。

講義のときに質問して、「なんだその質問は。もっとまともなことを考えてから質問しろ」などと教員にいわれたら、あなたはどうしますか。怯んでしまいますか。それとも毅然としてそういわれたこと自体に反論するでしょうか。(pp.32)

日本では「質問の内容いかんにかかわらず、質問すること自体がその人に対する批判である」といった図式がまだあるのかもしれません。(pp.33)

 私にとっては十分満足な問題提起である。

 本書では議論にはルールがあると示している。トゥールミンの議論モデルというらしい。このトゥールミンの議論モデルのみを扱っている。あれやこれや欲張っていないのですっきりしていて読みやすい。

 「おわりにかえて」にもあるように「論理」を扱っていない。ちょっと待て。ディベートは論理性を競い合う競技なのではないか?その議論モデルなのだから、「論理」を扱っているのではないだろうか?こう考えるのは自然だと思う。私たちは、小学校のときに作文の書き方で「起承転結」というのを教わる。本書で扱っているトゥールミンの議論モデルはこれと同列である。スタイルであり、「論理」ではない。

 続編があるようだ。そちらで「論理」を扱っているのだろう。期待したい。

Wednesday, December 19, 2007

池上嘉彦 『<英文法>を考える』

 最近のNHK教育の英語関連の番組を観ていた人には新しいことはない。

Amazon.co.jp: 「英文法」を考える―「文法」と「コミュニケーション」の間 (ちくま学芸文庫)

 本書は1991年に「ちくまライブラリー」から刊行されており、私が読んだのは1995年に刊行された文庫版。内容は16年前の本である。

 本書を手に取ったきっかけは、認知言語学の入門書としてリストアップされていたからだ。お勧めらしい。

認知言語学的メモ : 認知言語学文献案内

 認知言語学への興味は、NHK教育の『新感覚☆わかる使える英文法』による。なので、持ち合わせる認知言語学的知識は、この番組からの情報が私のすべてである。

 英単語編は、すぐに書籍になった。なので、英文法編もすぐ書籍になるだろうと思っていた。しかし、英文法編は出版される気配がない。個人的に、ヤキモキしている。

 私が通教で学んでいたとき、言語学関係の授業は「生成文法」のみであった。認知言語学については教授法のスクーリングで「はなし」があった程度で、学問として学んだことはない。

 本書の内容は、私が知っている情報とほとんどかぶる。ということは、『新感覚☆わかる使える英文法』と同等ということになる。私の事前の知識は上記のとおり。

Sunday, December 16, 2007

英語学習と脳科学

 大修館から出版されている『英語教育』の2008年1月号の特集が、「英語学習と脳科学」という面白そうな内容だ。

脳科学がいま元気である。言語学習に関連してさまざまな発見がなされるなか、英語教育界でも、脳科学を視野に入れての種々の提案、実験がされるようになった。新しい動向と最新成果を紹介する。

主要目次
脳内を最適に活性化する英語教授法とは(大石晴美)
英語(L2)の学習は日本語(L1)の語彙辞書を変える!:
 マルチコンピテンス研究が示唆するもの(村端佳子/村端五郎)
早期英語教育に文字はどこまで必要か(井狩幸男)
上級学習者は語彙をどのように理解しているか:
 反応速度と脳賦活から考える(石川慎一郎)
母語が違うと英語の情報処理時の負荷が異なるか(木下 徹)
私たちは日本語や外国語の文をどのように理解しているか(中野陽子)
第二言語習得研究の中の脳科学(松村昌紀)
[コラム]
脳科学から見たことばの習得(井狩幸男)

『大修館書店ホームページ燕館』より引用

 内容は、引用した目次の文字列から想像するものより、より専門的だ。現役の英語教師が触手を伸ばしたとしても、受信者、発信者ともに納得のいく「読み」ができるだろうか。不安はある。

 確かに脳科学は元気だ。しかし残念なことに、学問ではなく商業の面でそれが顕著である。事態がややこしくなる環境は整っている。特に英語に関しては百花繚乱である。教師が学問レベルの研究成果にふれる機会を増やすことは、必要不可欠になったと思う。

 脳科学と教育には政策の後押しもある。

「脳科学と教育」研究の推進方策について-3.「脳科学と教育」研究の推進に当たっての基本的考え方

 これは脳科学を教育に取り込もうというものではない。教育界からの課題に対して貢献できる研究をしてくださいという、科学界に向けた宣言である。ゆとり教育のときと同じように、真意が現場に十分に伝わっているのかあやしい。

 本書はこれから読む。

Saturday, December 15, 2007

苅谷剛彦 『学校って何だろう―教育の社会学入門』

 中学生のための社会学入門書。考える力を鍛える材料がこんなにも身近にある。

Amazon.co.jp: 学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫): 本: 苅谷 剛彦

 本書は中学校が舞台である。なぜ、中学校か?それは、小学校と全く違う教育的価値観が導入されているからである。近年はシンボライズされ、中1ギャップということばがある。

Yahoo!辞書 - 中1ギャップ

 リンク先を見ると新潟県教育委員会が名付け親らしい。私は中1ギャップについて、リンク先以下のことしか知らない。このような教育問題・社会問題があるのにもかかわらず、傍目には、くだらなく、過度に厳しい校則がなぜまかり通るのか?

 本書はそのような疑問に対して答えを示してくれるものではない。むしろ、「もっと悩め」と煽っている。もっともっと考えて、もやもやを自分なりに解消することを勧めている。複眼的思考法を鍛えるためのよい訓練となるだろう。

 中学生が本書を読むことは、よい活性作用があると考えられる。しかし、それを受け止める親や教師が真剣に向き合わなかったり、詭弁で逃れようとした場合に、子どもたちが感じるであろう不安感を増大する副作用となりかねない、と考えるとチト怖い。

Tuesday, December 11, 2007

梅棹忠夫 『知的生産の技術』

 本書を読んでいると、不思議なことに頭の中が整理されているような感覚になる。不思議だ。

Amazon.co.jp: 知的生産の技術 (岩波新書)

 LifeHackの古典ということで読んでみた。いつの時代も同じような苦悩がある。そして、同じような結論にたどり着くものだと思う。最近では、心理学がその領域に踏み込んでいる。市川伸一氏の著書などがそれに当たると思う。学問として成り立つことを切に願う。

 本書は、「メモのとりかた」、「整理」、「読書」、「文章」と多岐にわたる。梅棹忠夫氏は、「京大型カード」の作成者らしい。「京大型カード」という単語は知っていたが、どのようなもので、どのような使い方をするのかは知らなかった。現在では、コンピュータで「京大型カード」を再現できるので、使い方に視点を当てる。

 私がうなったのは、「一枚のカードに、一つの内容」ということだった。これが不思議とすっきりすることだった。でも整理するの大変そうだと思うのだが、読み進めると、「文章」の章でまとめられている。

 もうひとつ、カードの使い方で大切なことは「記録したことは忘れる」ということ。他人が読んでも、理解できる文章で書く。マインドマップとは逆のことをいっているのだが、活用が違う。使い分けが大切だ。私は思いっきり勘違いしていた。

 本書の内容とは全く関係ないが、京都大学ってGoogleのような考え方をもっているなぁと感じた。順番からいえば、Googleが京大みたいだなのだが。

Friday, December 07, 2007

和田秀樹 『和田式 書きなぐりノート合格法』

 機会があったので読んでみた。

Amazon.co.jp: 和田式 書きなぐりノート合格法 (新・受験勉強法シリーズ)

 本書は授業の受け方のハウツウ本である。ハウツウ本というと印象はよろしくない。しかし、授業の受け方なんて誰も習わない。タイトルにもなっている「書きなぐり」がキモだ。

 「書きなぐり」とは、教師のしゃべりをノートに「書きなぐる」ということ。乱暴にノートをとることではない。真意が伝わりにくいことばだと思う。

 最近では大学で、「ノートのとり方を新入生に教えましょう」という試みが行われているらしい。それくらい漠然としたものである。時代は関係ないでしょう。

 ノートはきれいにとりなさいと指導される。小学校低学年なら、それは正しい。書き取りの練習も兼ねているからだ。だからノートの提出を求めることもある。字が汚い、落書きするな、きれいにとれ、と注意する。しかし、それ以上の指導はない。あるとしても、中学で英語がはじまるときだろう。しかし、これも書き取りのレベルだ。

 教師は板書に苦心する。「板書を見れば、授業がわかる」ということばもある。誰が板書を見て授業がわかると評するのか、問題がないわけではないが、板書は教師の評価のひとつである。

 その板書をどう生かすかは、しゃべりにかかっている。教師がもっとも評価される部分だ。小中学校の授業では、しゃべりの部分も板書に書き込む。その感覚で高校の授業を受けると痛い目にあうぞ、と言っているように聞こえた。NHKの高校講座などを見ても違いを感じるだろう。大学になれば、板書はしゃべりのサポートだ。

 今回、本書を読んで感じたのは、和田氏の考えは「活用力」や「応用力」に根付いているということだった。「数学は暗記だ」という有名なことばも、本書を読んで解せた。

Wednesday, December 05, 2007

株式会社立

 「株式会社立」ということばを見て驚いた。

全国で初めての株式会社立小学校を認可/相模原市 : ローカルニュース : ニュース : カナロコ -- 神奈川新聞

 私は「株式会社立」ということばが初見だった。なので、はじめての「株式会社立」の学校ができたのかと思っていた。小学校がはじめてのようだ。

 立て続けに「株式会社立」ということばを目にする。読売新聞で連載されている『教育ルネサンス』というのがある。今回のテーマが「検証 特区の学校」だ。なぜ「特区の学校」が「株式会社立」なのか?

株式会社立中学校・高等学校(かぶしきがいしゃりつちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、小泉純一郎内閣の下で実施された構造改革特区の制度を利用して、株式会社が設置した学校である。日本では学校法人2004年から2007年春までに全国で14の中学校、高等学校がある。既存の学校と違い、カリキュラムを自由に組んで特色を打ち出すことができるのが利点であるが、逆に、私学助成金が受けられず、また学校法人への寄付には認められている税制上の優遇措置がないという財政的に不利な点がある。この不利な点のためか、朝日塾中学校の1校を除いて、株式会社立の学校の形式は通信制高等学校のみである。また所在地も地方の辺地に偏っているのも特徴である。
株式会社立中学校・高等学校 - Wikipedia

 とりあえず、金銭面では不利らしい。しかし、カリキュラムを自由に組める利点があるようだ。なので、カリキュラムを売りにしているらしいというのはわかる。しかし、カリキュラム自体は文科省が口出しするのではないのだろうか。それとも経産省の管轄なのだろうか。よくわからない。

 大学ならば、「学士」が得られるのだろうか。高校なら「大学入学資格」が得られるのだろうか。小学校・中学校なら「高校入学資格」が得られるのだろうか。

 今回の相模原市の株式会社立小学校は、インターナショナルスクールが母体となっている。

Saturday, December 01, 2007

冷泉彰彦 『「関係の空気」 「場の空気」』

 日本語から「空気」を読み解くというスタイルに驚いた。驚いたは大げさかもしれない。私にとっては新しい視点だ。

Amazon.co.jp: 「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)

 「空気」が日本語によるというのは信じられない。少し前の私ならそう思った。そう思わないのには、前提知識がある。

名前をつけるとは、どういうことか。ものを「切る」ことである。…なぜなら、「頭」という名前をつければ、「頭でないところ」ができてしまう。「頭」と「頭でないところ」の境は、どこか。(養老孟司 『解剖学教室へようこそ』 pp.59 ちくま文庫)

 これは、はっとした。

 英語を日本語のように理解できるようになる。そう信じて勉強していた、学生時代。しかし、思うようにいかない。しばらく英語と距離をとっていたが、またトライしようとしたときも同じような気持ちであった。

 養老氏のことばを知った後では、考え方が違う。ことばで区切ることは日本語も英語も違わない。しかし、日本語と英語で包括される意味が違う。だから、外国語がむずかしい。認知言語学の基本的な考えもこれに準じるのではないかと推測している。

 さて話を戻す。

 本書のタイトルにもある「関係」と「場」というキーワードが出てくる。「プライベート」と「パブリック」という意味で使われている。この視点は興味深い。英語でも「プライベート」と「パブリック」の差はあるが、語レベルになると私には見えにくい。日本語は、はっきりしている。「プライベート」と「パブリック」の切り替えに問題があるといっている。

 私は前に敬語はいらないと書いたことがある。特に会議、議論の際のことを念頭においている。活発な議論の妨げになると思っているからだ。上の人はため口で議論しているのに、下の人は敬語を使って議論しなければいけない。出来の悪い、八百長のようだ。そう非難してきた。

 本書では違うという。というか、「です、ます」調を基本形式とすることを提案している。全く、正反対のことを述べているのに、ひどく納得した。「です、ます」調は敬語でも丁寧語でもない。日本語の基本スタイルだといっている。これにひどく同調した。求めたいことは同じである。

Wednesday, November 28, 2007

文高理低

 理科離れと言われるようになってから何年経っただろう。

asahi.com: 小中学生理科、考える力身につかず 国立教育研究所調査 - サイエンス
理科実験身につかず 文科省調査 : ニュース : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 asahi.comの方には、電球とインゲン豆の問題が、YOMIURI ONLINEの方には食塩水と同じくインゲン豆の問題が掲載されている。

 電球に関する問いの答えは、「それでいいの?」と思わないでもない。というか、そんなの習ったかなぁと、思っている。やったのだろう。すっかり、忘れている。これはどういう文脈の中で教わっているのだろうか?興味ある。なんせ、忘れてしまっているので……

 食塩水の問題も、正常な反応だと思うのだが。質量保存の法則なんて立派な名前があるくらいだ。元来、「食塩がなくなったのだから軽くなる」と考えるのが一般的だったのだろう。だから、仰々しく名前をつけた。軽くなるという認識がスタート地点である。この認識がないと意味がないように思える。

 対象が小中学生なのだが、30代、40代の人に同じ問題を出して比較してほしい。よっぽどひどい結果が出るんじゃないだろうか。

Wednesday, November 21, 2007

教室での自然な英語コミュニケーション活動

 前にも同じことを書いたかもしれないが書く。

Eブックシリーズ情報/日本アイアール:研究会の運営―「英語展望」No. 115 の記事から - livedoor Blog(ブログ)

 リンクしたエントリにあるように、教室内での英語コミュニケーション活動は難しい。なので、視点を変えてみた。

私が前回のブログで述べたように、教室内の英語のコミュニケーション活動は、とても“自然な状況”でなされているとは言えない。中・高の英語教員はALT とはさまざまな話題について英語で話す機会があるであろうが、それをそのまま教室に持ち込むことは無理な場合が多い。

 ならば、生徒とALTとで、「望ましい英語教育」なるものを議論させてはどうだろう。

 本末転倒かもしれないが、まず、自分の身にかかわることを議論することになる。このような主観的テーマというのはやる気が起こるのではないかと推測する。

 それとテーマがはっきりした議論は、日常会話よりやりやすいのではないかというのは私の持論である。日常会話になると、文化論になりがちである。これを質問するは失礼、これをするのは失礼。英語以外が主眼になりがちのような気がしている。

 そして、学校教育としては定石の「明確な答え」がないというのが肝だ。最近、この類の思考法が問題らしい。
子どもたちは「能動的な勉強」「グループでする勉強」が苦手?[Pick UP 教育データ]【Benesse(ベネッセ)教育情報サイト】

 英語教員とALTが英語で話す機会があるというのは、テレビ等で知っている。それは小学校英語教育に関するモノが多かった。なので、小学校の先生ということになる。その際にこんな言葉があった。記憶なので、一語一句ままではないが、こんな感じであった。

 いやぁ、英語の勉強になりますね。

Tuesday, November 20, 2007

加賀野井秀一 『20世紀言語学入門―現代思想の原点』

 言語学版『生物と無生物のあいだ』である。

Amazon.co.jp: 20世紀言語学入門―現代思想の原点 (講談社現代新書)

 比較言語学から「ことば」の本質へと変遷してきた言語学史をコンパクトにまとめてある。それが20世紀の言語学である。「まとめてある」などと上目線で述べたが、そう信じる。私は専門家ではない。

 出発点はソシュールである。ソシュールの功績は大きいと改めて知る。しかし、ソシュールの疑問は、現代まで綿々と受け継がれていると知ることができる。

 先日、紹介したCayraでまとめてみた。

 Amazonのレビューで「詰め込みすぎだ」という指摘があった。私としては、言語学の歴史の概観を掴むのが本書の目的だと思う。なので、詰め込みすぎという反応はピンとこない。もちろん、私は言語学の流れに詳しくない。詰め込みすぎなのかどうなのか、その判別ができないのも事実である。

 しかし、樹形図として書いてみて「詰め込み過ぎかも…」と思えるようになった。正直なところまとめきれているのか、全く自身がない。特に構造主義の件になると複雑度は増す。構造主義については勉強したい分野のひとつである。

 物足りないのは記号論の件だ。記号論はチョムスキーへの布石となり、現在の認知言語学の土台だと、本書を読んで感じた。ここは大きな転換点だ。

 少し、Cayraについて気になったことを書く。

 生成されたマップはFreeMindに比べると色彩豊か。手書きのマインドマップの雰囲気を味わえる。しかし、PCへの負荷が大きい。私のように低スペックのPCをいまだに利用している人間にとってはストレスになる。ノードの配列は基本、オートである。それが煩わしく感じることが多い。自由度を阻害している。

Thursday, November 15, 2007

松井孝典 / 南伸坊 『「科学的」って何だ!』

 愉快痛快であるが、同時に、夢のない大人と映ってしまう。

Amazon.co.jp: 「科学的」って何だ! (ちくまプリマー新書 66)

 「ちくまプリマー」なので、中高生向けの書籍である。中高生向けの書籍は、ざっくりと概要を掴むのに最適である。なので、岩波ジュニア新書、ちくまプリマー新書は注視している。大人でも躊躇することなく手に取れと、自分に言い聞かせている。

 さて、本書は『「科学的」って何だ!』というタイトルと、松井孝典氏ということを考慮すれば、「宇宙に関することかしら?」と思うのが自然だ。しかし、内容は「メディア・リテラシー」と「情報リテラシー」である。Amazonのレビューを見ていると、ここら辺の食い違いが低評価のひとつと考えられる。実際、私もがっかりした。

 気をとり直して読んでみる。基本、愉快痛快である。しかし、読者ターゲットである中高生にはどうだろうか?と思うふしがある。自分の経験のみを頼りにした推測である。

 私が小中学生のころ、テレビではオカルトやら心霊現象やら超能力やら宇宙人やら無法地帯であった。毎週のように、これらのどれかが特番で放送されていたように思う。そのような番組では、たいてい、科学者と称する人が何人かゲストでいる。反論者として、もしくは、科学敗北のピエロとして。

 私はここで、まんまとテレビの術中に陥る。科学者はなんて夢のない連中なのだ。これらの現象がそう簡単に科学で理解できるのか。いや、できないんじゃないの。じゃぁ、不思議な方を信じちゃうよ。ほとんど生理的な反感・嫌悪である。理論もクソもあったものではない。

 本書には「科学者はなんて夢のない連中なのだ」と思わせる部分が多いと、私は感じる。そこに、もうひとりの著者、南伸坊氏はつっこみを入れるのであるが、突き放されてしまう。ディスコミュニケーションである。私が小中学生のころ、テレビを見ながら感じていたのと同じ感覚が本書に残っている。

 さてさて、残念がっていても仕方がない。本書では教育、特に科学教育に問題提起をしている。それが本書のコアである。

 日本に科学者という肩書きを持った人がどれほどいるか知らない。リタイアした科学者は義務教育課程へ天下りしてくれないだろうかと思う。子どもたちばかりへの影響ではなく、先生への影響も大きいはずである。そして、科学の授業で「読書会」も考えられてよいはずである。実験も確かに面白い。米村でんじろう氏などは、科学への門を開くのが役割だと考えていると、私は思う。その門をくぐった人への手助けとして「読書会」ほど必要不可欠なことはないと、ふと、考えた。

 古典物理は、子ども時代の「遊び」や生活そのものが読書会の役割をしている。しかし、高校でやる磁気学はチト日常から遠く、「遊び」や生活からイメージするのが難しい。物理を綴る数学に至っては、中学から抽象的な概念が入ってくる。幾何は大切な分野であるが、これも、微分・積分ほど直感的ではないというのが、私の経験である。

 サイエンス・カフェは学者間のブレインストーミングという性質が強いように、私には感じる。しかし、本来は学者と一般人のコミュニケーションの場である。それを教育現場へ持ち込んでもよいのではないか。私はこれを、リタイアした科学者がタクトを振るう「読書会」とした。如何なもんか?

Sunday, November 11, 2007

入力した英語を読み上げ、かつ、mp3へ - vozMe

 百式さん経由で知った、このサービスは利用価値がある。

入力したテキストをすぐにMP3でダウンロード可能にする『vozMe』 | 100SHIKI.COM

 入力した英文テキストを読み上げてくれるサービスである。パッとおもいつくのでは、Yahoo! Japanが提供している「英語学習 http://stepup.yahoo.co.jp/english/」の「英文を聴こう http://stepup.yahoo.co.jp/english/listening/」が思い浮かぶ。音声データとしは同程度のモノを提供してくれる。

vozMe

 vozMeは、その音声データをmp3でダウンロードすることができる。これに利用価値があると思う。

 現在、中学校の英語の教科書にはCDなどの音声データが添付されていない。このサービスを使えば手軽に音声データを入手することができる。入力の際に、英文をタイプすることにもなるので、一石二鳥だと思ってしまう。

見た目がイイ感じのマインドマップツール - Cayra

 PCでマインドマップというと、私は、FreeMindを愛用というほどではないが、利用している。

 FreeMindは、喩えるなら、テキストエディタである。派手な装飾はないにしろ、マインドマップを作成するために考えられた操作性は、えんぴつで書くそれと同じようなレスポンスを可能とする。しかし、テキストエディタであるので、作成されたマインドマップの見た目はシンプルそのもの。私は、物足りなさを感じていた。

Cayra - 新感覚のマインドマップツールで頭を整理 (Buzzy Dizzy Biz)

 ここで紹介されているCayraは、作成されたマインドマップの見た目がすこぶるよい。まぁ、私の嗜好ではあるが。とりあえず、試してみた。

Make it clear! | Cayra

 まず、気になるのは日本語が使えるかどうかだったのだが、問題なさそうだ。「なさそうだ」というのは、新規作成で日本語でつらつら書いて表示されたというだけの確認で、実用的な確認法ではないからだ。

 ひとつ「おっ」と思ったのが、FreeMindのデータを読み込めること。なので、FreeMindのデータを読み込んでみた。所望の出力結果ではなかった(これが、不具合なのか、FreeMindで保存したときの状態の問題なのかわからない)。

 もう少し、いじってみたい。

Saturday, November 10, 2007

生物と無生物のあいだ

 ようやく読み終えた。綺麗な文章だ。

Amazon.co.jp: 生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)

 分子生物学の近代史、だと思う。背景の人間関係がドラマタッチで描かれており、絵が頭に浮かぶ。外国人作家の科学書は、おおむね、本書のような文体である。私は、実は、このような文体は好みではない。

 好みではないが、『内部の内部は外部である』のくだりは、その表現力を妬む。これの表現が福岡氏のオリジナルなのかどうか、それは知りかねるが、綺麗な文章だと感じた。

 読了するのに時間がかかった。何冊、別の本を読んだのか、もう覚えていない。チビチビ読み進めた。しかし、読み終えると生物学への興味が沸いているのに気がつく。高校の生物のレファ本として最適なのではないだろうか。

Monday, October 29, 2007

学校とテスト

 本書を読み、「うんうん」と思うか、「そんな無責任な」と思うか。

Amazon.co.jp: 学校とテスト (朝日選書 (90))

 著者の森毅氏は現在、京大の名誉教授らしい。一時期、テレビにもよく出演していたので知っている人もおおかろう。のほほんとしていて、同じ数学者でも藤原正彦氏や秋山仁氏などとは正反対というのが、私の印象だ。

 本書は1977年発行、30年前になる。それでも論じられていることは現在にも通用することである。学力論争、大学入試、教科書問題、指導要領、科学教育、学校と塾、評価、などなど、過去の問題は今の問題でもある。そして、「あなたの言っていること、分かりますよ」という感想なので、問題点も同じなのだろう。まぁ、30年で、何度か問題点が入れ替わったのかもしれないが、現在は30年前と変わらない。

Saturday, October 27, 2007

NHK教育 「シリーズ・世界はこうしていじめと闘う」

 本日、23時50分よりNHK教育で「シリーズ・世界はこうしていじめと闘う」というドキュメンタリーが放送されるようです。

BS世界のドキュメンタリー

 BSでは「青い目、茶色い目」も放送されるようですね。今回は、カナダとアメリカ、韓国の事例のようです。私は、アメリカのやつを見たことがあります。考えさせられました。

 本日は、フジでも『たけしの日本教育白書』が放送されており、教育週間かなんかなのでしょうか?

Friday, October 26, 2007

学校や教育委員会は「平均より上、下」でなぜ一喜一憂するのか?

 今春に行われた学力テストの結果が公表された。各メディアは「知識はあるが、応用力がない」と報じており、「学力に問題がある」と結んでいる。「はて、学力ってどんな『ちから』だっけ?」と、また悩んでしまう。確か、「学力」が問題として表に現われたときは、「分数のできない大学生」や「円周率は3です」といった知識不足であったと思う。これらを「学力」問題とするならば、「知識はあるが、応用力がない」は「学力」問題の改善であり、喜ばしい結果でないか。

 さて、今日はそんなことではなく、各教委、学校の反応が気になったので書きたい。

全国テスト…学力差、笑顔と落胆 : ニュース : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 記事にこうある。
 全国学力テストで、公立学校のデータを集計した都道府県別の平均正答率が公表された。好成績を喜んだり、予想外の苦戦に落胆を隠さなかったりと、各自治体の表情は様々。

 ここでいう「平均正答率」というのは、満点に近ければ近いほど「よい」とされるものだろう。個人としてはここで「ん?」であるがそれはいい。ということで、好成績で喜んでいる自治体は満点に近い、100%に近い正答率だったはずであり、落胆している自治体は100%から離れているはずである。
 一方、平均正答率が全国平均を下回った自治体の表情は厳しかった。

 ここで「おや?」である。自治体の「平均正答率」が全国平均を下回った自治体の表情が厳しいとはなぜ?全国平均に何の価値があるのだろう?この場合なら、都道府県別で1番の「平均正答率」を基準にし、厳しいなというのであれば、まぁ、分からないでもない。しかし、全国平均と比べて落胆している意味が全く理解できない。私がとっている新聞の地方欄でも「全国平均を上回る」という見出しがあった。何を勘違いしているのやら。

【主張】全国学力テスト 競争封ぜず学力の向上を - MSN産経ニュース

 このような「主張」もあるのだが、メディアの報じ方や学校・教育委員会の喜哀を見ていると「序列」したいのだなと思わざるを得ない。この際、メディアはどうでもいい。現場、学校や教育委員会が勘違いしなければいい。

 「平均正答率」が上で記した基準で用いられているとすれば、満点が合格ラインなのだろう。ということは、どの自治体も平均では合格ラインに達していないことになる。「本当かよ?」と思うかもしれない。もちろん「本当かよ?」である。だから、平均正答率が判断基準に使われていることが「なぞ」なのだ。

 というか、平均は粒をそろえることに価値があるので、平均に近いことに一番価値がある。だから、平均点60点だとすると、30点も90点も平均を乱す厄介者のはずである。「平均正答率」を物差しに使いたいのなら、前もって基準となるべき点数を提示するべきである。そして、これでよい結果を得るためには、下位の強化が一番手っ取り早い。フィンランドはこれで世界から注目される点数を獲得することができた。

 今回、よい結果を得られた自治体はよい結果の得られていない自治体へ文句を言ってもいいはずだ。なぜなら、平均を下げている要因である。お節介をしてもよい。そして、よい結果を得られていない自治体は、プライドがあるならば、よい結果を得た自治体の技を盗むくらい結果に拘ってもよいのではないか。それが平均より下で落胆している自治体がとるべきプライドある行動でないか。

 今回の学力テストは何を「はかる」のが目的なのか?各設問には必ず「はかり」たい項目がある。それを現場は知っているのだろうか?別に知らなくても問題はないが、余計な時間がかかる。今回の受験者は小6、中3である。テスト結果の活用もままならない。

Wednesday, October 10, 2007

ハートで感じる英文法―NHK3か月トピック英会話

 『新感覚☆わかる使える英文法』終了に伴い、大西泰斗氏とPaul Chris McVay氏が復活というので、読んでみた。

Amazon.co.jp: ハートで感じる英文法―NHK3か月トピック英会話 (語学シリーズ)

 本書を除くと、彼らの著書は2冊読んでいる。『みるみる身につく!イメージ英語革命』(講談社プラスアルファ文庫、2005年)と『英文法をこわす―感覚による再構築』(NHKブックス、2003年)である。

 前者は単語をメインに、後者は文法をメインにと考えていい。本書に書いてあることは、これら2冊にも書いてあり、目新しいことはない。それを分かっていたので、今の今まで、彼らの出世作でもある本書を読まずにいた。にもかかわらず、私は本書を読んで「なるほどな」と思った。

 本書はイラストが素晴らしい。私が読んだ2冊は、特徴的なイラストを使っている。正直なところ、「あのイラストに落ち着いたのはなぜ?」と思っていた。本書は、私の不満を払拭してくれていた。書籍に使われるイラストが違うだけで、印象が変わるというのは珍しいことではない。しかし、同一作者がイラストを変えるというのは珍しいと思う。

 この類の本は、イラストがものをいう。好き嫌いにより、会計に運ばれるか、本棚に戻させるか、決まる。これは選ぶ側にとっては不幸なことだ。内容に関わらず、外面だけで好き嫌いを決めかねない。誤った判断により、有益な情報を自ら拒絶することになる。売り手としても同じだろう。

Wednesday, October 03, 2007

コミュニケーション技術―実用的文章の書き方

 「コミュニケーション」ということばから、何を想像しますか?私は思い込みによる勘違いで、本書を敬遠していました。とんでもない過ちだった。これはスゴ本。

Amazon.co.jp: コミュニケーション技術―実用的文章の書き方 (中公新書)

 私は本書を知っていた。ブックオフで100円の棚に陳列してあったのをいくどとなく見ては、スルーしていた。「コミュニケーション」ということばを敬遠していた。だから、本書を手にすることなくいた。

 偶然、Amazonで本書のレビューを読んだ。そこには、「実用文書」、「文を書くとき」、「悪文」、「論理的な文章」と、ライティングに関することばが並んでいた。過ちに気がついた。「コミュニケーション」=「会話」と決め付けていた。

 本書は、日本テクニカルコミュニケーション協会(JATEC)の会長、篠田義明氏による、実用的文章の書き方の解説書である。1986年初版と決して新しくないが、内容は現在の教育問題にもなっている、言語運用の核である。この手の他の書籍には、『外国語を身につけるための日本語レッスン』(白水社、三森ゆりか)がある。読者対象が異なるだけだ。

 篠田氏はミシガン大学でEnglish Technical Communicationを学んでいる。欧米の大学では作文の授業があることは既に日本でも知られている(と思う)。本書にあるような訓練を受けている人からすると、日本人が何気なく書く文章を「意味不明」と言われても、「ごめんなさい」と言うよりない。三森氏の本では、小学校でも同様の授業が行われているとある。「大変申し訳ございません」だ。

 英語の参考書に「パラグラフ・ライティング」やら「パラグラフ・リーディング」やら多数あるが、本書ひとつでこれらをカバーできるのではないかと思う。そして、本書に書いてあることが自分のモノになれば、整理術にもなるだろう。

Friday, September 28, 2007

大人の英語発音講座

 「今どき英語発音本にCDがついていないなんて……」と思った。あら、ビックリ。こいつはいい。

Amazon.co.jp: 大人の英語発音講座 (生活人新書)

 2年くらい前に、本書の存在を知った。ということは、2年くらい読んでいないことになる。なぜ、2年前にスルーしたのかというと、上記にも書いたとおり、本書にはCDがついていない。「英語リスニング・スピーキング本としては如何なもんでしょう?」というのと、batの母音の説明(他の音も同様)で、「エ」と言いながら口を縦方向へ開いて云々、という説明しかなく、図がないことに不満だった。舌の位置とか、唇の形とか知りたかったのだ。

 その当時は、個別の音を知ることが英語リスニングへの近道だと信じていたので、『英語耳』(松澤喜好、アスキー)や『オバケの英語』(明川哲也・クレイグ ステファン、宝島社)に飛びついた。

 しかし、徐々に違和感を覚えるようになる。発音記号、一つひとつの音をなんとかモノにしたとしても、単語や文章として聞いた場合に、どのようにコレが役に立つのか、私には見えにくかった(気がついていないポイントがあった)。なので、フォニックスに手を出した。

 が、フォニックスでも問題は変わりなかった。基本的には『英語耳』や『オバケの英語』と変わらなかった。フォニクスの方が自学にとっては汎用性が高いと、思った程度だ。

 なにが不満だったか?

 それがシラブルとアクセント、音の連結や消失であった。本書ではこれらが、体系的に示されている。学習ステップと目標にも共感できる。本書のpp.113 - 115に書かれていることもこれらを後押しした。この手の言及を、私は『魔法の発音 カタカナ英語』(池谷裕二、講談社)しか知らない。

Thursday, September 27, 2007

本当に発音記号ならば

 英語の場合、どのような「ふりがな」がつけられるのか、私は知らない。もし、IPAなどの発音表記が付されているのならば、これはorzなコトではないと思う。

正しく読んで大統領! 演説草稿に〝発音記号〟|米国|国際|Sankei WEB

 日本人ならば、この記事を読めば、ふりがなを思いつく。確かに一国の長が、演説草稿にふりがな、― 外来語はカタカナ表記になるので、この場合は確実に母語にふりがながふられることになるので、ちと恥ずかしいのは分かる。

 英語ならば基本的には表音文字なので、日本語と対比して考えるならば、すべて平仮名で書かれているものと考えていい。しかし、英語母語話者でも読みに窮する綴り字もあるので、平仮名と単純に比べることもできない。

 発音記号というと、私たちはまず、辞書の単語の横に書かれた、eを逆さまに書いたような文字などを思い出す。あれがIPAだと思っていい(中には違うものもあるけれど…)。もし、IPAがルビで付されていたのであれば、「ブッシュ、ヤルじゃん」と、私は思ってしまう。英語母語話者の何パーセントがIPAを読めるだろうか?

 とりあえず、パックンは発音表記を読めないらしい。
In the show on September 17th, 2007 : 英語でしゃべらナイト

 まぁ、記事ではアルファベットでルビが付されているとあるので、例えば lightをliteのような感じなのであろう。しかし、失敗事例を見ると、発音の困難な単語という問題で片付けてよいのかと、思わないでもない。

Wednesday, September 26, 2007

教育再生会議は存続

 予想通り

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 町村官房長官、教育再生会議存続を表明

 しかし、教育再生会議の影響力ってのは一体どれくらいなのだろう?未だに謎である。

テストとはなにか?

 この記事を読み、「これはすごい」と思うか、「当然じゃん」と思うか。

テストを生かす(1) 学力に応じ出題「新タイプ」模索 : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 当該記事を書いた記者は「これはすごい」と思ったようだ。当たり前なら記事にならないだろう。テスト本来の活用法が「これはすごい」記事になる。

 この記事でひとつ、ひどく気になった箇所がある。

繰り返せば同じ問題が何度も出てきて、テストの意味が薄れることになるが、……


 これはおそらく記者の質問だと思われる。同じ問題でも、正誤が激しいのであれば、きちんと理解していないことが一目で分かると思うのだが、違うのだろうか?この質問の意味が、私にはよく分からない。

 この記事には指摘がないが、テスト結果は「教員の『おしえる力』も点数化する」ということを忘れてはならない。この点の議論が、表に出ていないことの方が驚きだ。

 教員の指導力不足が声高になっている。指導力が不足していると判断された教員には、再教育が実施されている。どのような再教育プログラムが実施されているか、各教育委員会にまかされているのだろう。私は詳しくない。もし、本気で指導力不足解消を目論むのであれば、この類のテストを教育委員会で作成し、各教員の得手・不得手を明確にする材料を提供するのも教育委員会の仕事なのではないだろうか。

 なぜ教育委員会の仕事にしたのかというと、項目反応理論を使ったテストの作成を一教員に任せるのは、負担が大きすぎるのではないかと思うからだ。もし、一教員でも可能であるならば、教員の職業倫理の問題だけである。

Tuesday, September 25, 2007

文部科学大臣に渡海紀三朗氏

 福田康夫首相が正式に任命された。それに伴い、内閣が発表になった。平時ではないということで、多くの大臣が再任となった。数少ない、福田首相の任命に文科省がある。

 文部科学大臣に渡海紀三朗氏が任命された。一部、憶測では橋本聖子氏が有力ではないかと報道でもあった。伊吹前大臣はかなり?な任命であったが、渡海紀三朗氏は文部科学副大臣経験者ということで、このことだけならば適任ということになるだろう。

 期待したいのは渡海紀三朗氏が理系出身だということだ。建築学科出身なので芸術的な感性も十分に持っていると想像する。個人的に、この部分が意外と大切だと思っている。

 そして、内閣補佐官の山谷えり子氏は留任した。このことからも、安倍内閣の方向性は維持されていくのではないかと推測できる。教育再生会議ももしかしたら、機能は残るのではないだろうかと思ってしまう。

Friday, September 21, 2007

小学校はCD付きテキスト、中学・高校は?

 文科省は、約4億5,000万円を使い、小学校の英語教育で使う「英語ノート」を配布する方針に固めた。

小学校にCD付きの「英語ノート」を導入へWorkbook with CD to be Introduced for Elementary School English Classes (英語教育ニュース)

 ねぇ、中学校は?高校は?既に教科書とともにCDも配布されているの?

足立区の学テ不正行為問題

 足立区の成績による予算配分制度ができたときに、かならずこの類の問題ができると話していた。案の定、そうなった。

東京新聞:成績による予算配分廃止へ 学テ不正行為受け東京都足立区:社会(TOKYO Web)

 この校長はなぜ不正をしたのだろう?
  1. 是が非でも予算が欲しかった
  2. 是が非でも校長職としての成果が欲しかった
  3. 是が非でも教育への競争原理導入に反対だった

 3であってほしい……

Thursday, September 20, 2007

「いじめというより犯罪」

「いじめというより犯罪」文科相が批判 神戸の自殺|学校教育|教育・福祉|Sankei WEB

 こういう発言もやればできるのね。まぁ、大臣はもうおしまいだから、やけっぱちなのかも……

Tuesday, September 18, 2007

平等社会フィンランドが育む未来型学力

 フィンランドセンター所長によるフィンランド教育レポート。

Amazon.co.jp: 平等社会フィンランドが育む未来型学力

 一時期、さんざん騒がれたが、最近トンと聞かなくなった。日本「的」な一過性ブームの一端をここでも垣間見た。

 本書は、OECDで行われているPISAで好成績を示した、フィンランドにおける「教育とはなにか」というのを記したモノである。教育史、教育改革のポイントなど参考になる箇所がありそうだと手にした。

 本書を読んで、フィンランドでは「教育でできること・できないこと」を見極めていると感じた。フィンランドにもいじめや不登校の問題があるはずだが、そのことに関しては記されていない。進路指導や部活動についても書かれていない。不登校に関しては少し書いてあるのだが、それも教育制度でなんとかしている。この大胆さが羨ましい。

 さて、「教育でできること」は「教育制度の制定」と「教員養成」だと受取れる。

 「学校制度の制定」は日本でいう文科省と同様、国が行う。しかし、日本と比べると縛りは厳しい。

一般的な国家目標と科目別、分野別の授業時間数および生徒指導時間数の割り当てについては、フィンランド政府が決定します。国家教育委員会は、教育課程基準を承認し、各教育の目標と内容を設定します。これをもとに、地方自治体などの学校設置者が地方カリキュラムを編成します。(pp.117)


 同じではないかと思うかもしれないが、フィンランドには日本のような内申評価というものがないのかもしれいない。

義務教育は、授業への出席を強制するものではないので、授業出席に相当する知識と技能を通学以外の方法(おもに仮定での学習。国家教育委員会が教える人の能力を監督している)で習得してもかまいません。(pp.116)


 日本とは違い、宗教や倫理が義務教育課程で必修科目とされているし、プレスクールが充実しているのであまり問題がないのかもしれない。

 教員養成に関しては非常に力を入れている印象を受ける。まず、教員には修士課程を要求している。日本でも教員を経験し、各教育委員会から許可をもらえれば大学院で学ぶことができるが、ほとんどは教育委員会や付属へ行ってしまうので、根本的に修士号を取得する意味が違うのではないかというのが、私の意見。

 教育実習も2段階になっており、評価も可か不可というすっきりしたもの。しかし、不可を出す前に、話し合いを持ち、追実習というので教員養成体系がしっかりしている。日本の場合、教育実習で不可であったら、確かアウトだったと思う(受入校を変えれば再実習OKだったか?)。切捨てではなく、育てるという姿勢が、教育界全般に漂っている。

 日本では「教えること」から「学ぶこと」、そしてまた、「教えること」へ教育姿勢が変化しようとしている。「教えること」を放棄するのはありえないことだが、「教わること」の必要性を理解するには「学ぶこと」で壁にぶつかる必要がある。

 「学ぶこと」には自主的・積極的に学習したいという視点があると思う。自主的に学ぶことに限界があると感じることで「教わること」の必要性を理解できるのではないか。日本でも「学生時代にもっと、勉強しておけばよかったなぁ」などというセリフを聞くことができる。不思議とこのフィードバックが学校教育にはないように、私の目には映る。

 かつては日本も海外からの視察の対応に忙しかった。それは、その当時の社会背景にマッチした教育成果を得られていたからである。今は、フィンランドの教育が社会背景にマッチした教育成果を得ることができている。ただそれだけの違いである。

Saturday, September 15, 2007

物理法則対話

 仰々しいタイトルの通り、中身も仰々しい。

Amazon.co.jp: 物理法則対話

 科学史、物理史とでもいうのでしょうか。時間軸で物理法則の概念説明がされている。面白い中身なのだが、内容は決して簡単ではない。むしろ、コレだけの紙面にギッシリと詰込まれた内容を噛み砕くのは難しいのではないだろうか。

 一読して理解できないなら、何度でも読まなければいけない。精読が必要な箇所はほとんど教科書を変わらないように、私は感じる。しかし、物理法則のみの解説ではなく、その裏の思想や哲学を理解するのが本書の目的である。

 私は縦書きに読みにくさを感じるのだが、それは好みの問題。

Thursday, September 13, 2007

オリジナル曲かよ!

 世界陸上のときにCFで流れていたのを聴いて「かっこいいなぁ」と思っていたピアノ曲がある。

Honda | ブロードバンド動画 HDTV

 CF曲に集中していて、なんのCFなのかさっぱり分からなかった(これでいいのかHondaさん?)。クルマはまったく興味がないので、とりあえず、TOYOTAで検索したが違うらしい。私は、メーカはともかく、車種がさっぱりだ。知ることができてよかったが、オリジナル曲かいなぁ……orz

 稲本響氏というピアニストの作品らしい。あとで作品を聞いてみたい。ジャズっぽいのかしらと思っている。

 感じは『ピアノ・レッスン』で流れていたMichael Nymanの『The Heart Ask Pleasure First』のような暗い感じがとても好き。

 反響があれば、リリースするかもしれないので、とりあえず書いてみる。できれば楽譜が欲しい。こういうときに、耳コピできない自分がイヤになる。

Sunday, September 09, 2007

偏差値は子どもを救う

 ブログ(『森口朗公式ブログ』 http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/)で氏のことを知った。調べてみたら著書が多くあったので読んでみた。

Amazon.co.jp: 偏差値は子どもを救う

 1999年とチト古い本であるが、「教育問題」は「評価」とリンクしているというスタンスは、私のスタンスとも同列である。評価というと忌々しい感じがするが、どのような基準で採点されているのか知る必要がある。こんなのはほとんどが勘違いが広まったせいである。

 本書に愛知県が健闘しているという記述がある。そういえば、犬山市も愛知県だったなぁ。なぜ愛知県の公教育が健闘しているのか、本書では「管理教育」だからとしてある。これは興味深い。

Wednesday, September 05, 2007

朝青龍問題、波及か?中学で武道必修化へ

 タイムリーなだけに「朝青龍問題に釣られてか?」と考えてしまう。

中学で武道必修化へ 中教審体育部会 「伝統文化」重視で|学校教育|教育・福祉|Sankei WEB

 子どもの体力低下を懸念して学校体育に力を入れる、と先に報道された学習指導要領改正にあったが、こう来たか。言いたいことはなんとなく分かる。相撲の新弟子検査にはじめて受験者が0人という報道が7月にあったしね。

 しかし、これが意外であった。

男子の武道は4年度まで必修だったが、女子について必修化するのは戦後初めて。


 4年度って平成4年度ですよね?だとすると、私は武道必修だったはずであるが、まったく記憶にない。はて、なぜだろう?忘れたい記憶なのかしら。

 もうひとつ危険な発言がある。

文科省によると、武道の必修化は「触れてみて良さがはじめて分かる」(企画・体育課)という狙いが強い。


 まぁ、なんというオカルトでしょう。学校現場では、これは禁じ手のはずである。だから、体罰が禁止された。「言語力」を鍛えたいと教育改革を模索している大締めが言うことばではない。

 しかし、剣道や柔道を必修にするなら、古武術でも必修にすればいいのに。こちらの方が、日本文化としては古いだろうし、実際にも役に立つ、一石二鳥でしょう。 

Tuesday, September 04, 2007

経験にたよらない

 NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見た。

 「継続する才能」とはいたるところで聞くことばになったが、本日の放送を見ていると言い返すことばが見当たらない。「プライド」ということも述べられていたが、誰かに言われないと意識できない感覚になってしまった。はっとした。

 先週の放送でもジンとすることばがあった。

 「経験にたよらない」

 これは重い。素直にそう感じた。「普通は頼るだろう」って、つっこみたくなるが、それは私の常識なのかもしれない。

Monday, September 03, 2007

死の壁

 「死」についての本。しかし、「死とは何か」という本ではない。

Amazon.co.jp: 死の壁 (新潮新書)

 養老孟司氏の『人間科学』(筑摩書房、2002年)を読みたかったのだが、置いてなかったので、本書を手にした。本書は「『人間科学』をやさしくしたもの」という。

 子どもの自殺が騒がれたころ、「学校教育でなんとかせないかん」という議論もされていた。はて、どうしたらいいのだろうかと考えたことがある。

 私が結論として出したモノは、「親族、または故人を好いている人が、本気で悲しむ姿を隠さずに見せるということに尽きる」ということだ。これに勝るモノはないと考えた。

 スキットをしたり、ビデオを見せたりなどは効果は期待できない。しかし、口演などでは空気を感じることはできるだろう。思春期の子どもたちの心にどれだけ残るのかは計算できないが、コトの重大さは伝わるのではないかと……

 本書に「死体には3つの定義がある」とある。一人称の死体、二人称の死体、三人称の死体。

 一人称の死体は、自分の死体だ。これはよく分からない。おそらく存在しないのだろうと本書にある。二人称の死体は、親族・近親者の死体であり、一般に言われる「死」とはこれに結びつくと思う。三人称の死体は、本書の表現を使うと「今日の交通事故死 1名」の「1名」である。顔の見えない死体だ。学校で教えることができるのは三人称の死体に関わる死だ。この物差しは秀逸だと思った。

 何事も学校教育に取り込まれると、自分とは遠い存在になってしまうと、私は思っていた。これは感覚としてそう思うだけなので、うまくことばにできるとは思っていなかった。しかし、このような物差しを設定すればなんとかなりそうだと感心した。

 本書には、エリートの話もある。このエリートは藤原正彦氏のいうエリートと同義である。私は、他にどのような意味としてエリートという言葉が使われているのか知らないので、Wikipediaで調べてみた。

エリート - Wikipedia

 見なかったことにしよう。本書のことばだと、

エリートというのは、否が応でも常に加害しうる立場にいるのです。(pp.137)


 「第八章」にあるのですが、氏らしいことばでまとめられている。今の私には、ここで考えなければならないことが多すぎる。

 脱線した。

 本書と『バカの壁』(新潮新書、2003年)は、『人間科学』をやさしくしたものらしい。『バカの壁』ってどんなだったかなぁと思い出してみようとしても、思い出せない。読書に慣れていないときに読んだ本なのだが、読書も慣れがあるのだと改めて感じた。何事も運動だ。

Wednesday, August 29, 2007

妖しい赤茶

 涼しい。長袖のシャツを出した。秋の虫の声が聞こえる。昨日の皆既月食は見ることができなかった。とても残念だ。しかし、あの雨のおかげで暑さから離れることができた。複雑な気持ちだ。

 昨日のニュースでは、北海道ではキレイに見ることができらしい。とてもはっきりと見えることに、チョット感動した。私は自分の目で見たことがない。知識としては知っているが、実際の様子も記憶にない。

2007年8月28日 皆既月食 ギャラリー

 あんなに妖しい赤茶色になるなんて。

 しかし、季節がガラッと変わってしまった。まぁ、また暑くなるだろう。

英語は「やさしく、たくさん」―中学レベルから始める「英語脳」の育て方

 やり直すのなら、とことん基礎から。

Amazon.co.jp: 英語は「やさしく、たくさん」―中学レベルから始める「英語脳」の育て方 (講談社パワー・イングリッシュ)

 著者の伊藤サム氏はジャパンタイムズ編集局次長、『週間ST』編集長という肩書きである(ソースは本書)。新人記者研修で行っている教育がベースとなっている学習法である。

 野口悠紀雄氏の「パラシュート勉強法」(『「超」勉強法』、講談社文庫、2000年)の視点から考える。野口氏のこれは分からないところは、とりあえず飛ばして、先へ進めといっている。そうすれば、基礎的なことへの「気づき」の視点が生まれるというもので、ひとつのトリガーを提供する自己学習法である。

 この「やさしく、たくさん」にも、この基礎への気づきという視点が含まれているように思われる。理由は新人記者が英語ネイティブであるということだ。基礎は難しい。それは、概念の理解になるのだから。抽象を具体へという変換作業をするためには知識が必要であるからだ。経験がなければ気づくことは難しいと思う。しかし、初学者には絶対的にそれが不足している。だから「たくさん」なのだ。

 「やさしく」の定義は難しい。本書では、はじめは、中学英語からと書いてあるが、自分が感じる「やさしい」を早く見つけることが必要だ。それはなにか?本書では「i + 1」と示している。iは自分の英語思考可能レベルとある。英語思考可能レベルとは、日本語を介さず英語で考えるということだろう。多くの人にとっては、これが中学レベルということらしい。

 さて、本書の内容は氏のホームページを基としている。

伊藤サム 英語の世界

 なので、それを読めば本書を手に取る必要はない。しかし、氏のサイトはお世辞にも読みやすいとはいえない。むしろ、本気で氏の教えを請うモノしか受け付けぬというメッセージのように思える。

Tuesday, August 28, 2007

言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか

 肉厚な内容。

Amazon.co.jp: 言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか (中公新書)

 「言語をサイエンスに」という酒井邦嘉氏の思いが色濃い。もちろん、その部分は賛成であり、情報工学での活用も考えられるので、丹念に研究がなされてほしいと思う。しかし、本書を見ると、翻訳ソフトはまだまだだなぁと改めて思う。

 この手のはなしは、分野別ではなく、時系列で述べてもらえると、私はすんなり理解できることが多い。分野ごとで述べられているのであるが、2章を読んでいるのに、7章に詳しいとか書かれていると「なんだかなぁ」となってしまう。まぁ、これは私の嗜好である。

 チョムスキーの言語生得説を仮定して論じてあるので、現在の言語学、認知言語学、応用言語学の問題点を知るのによい。本書では、今までの論文を言語生得説の立場から批判している。しかし、紙面の関係上、とてもあっさりした批判に終始している感が否めない。然るに、その妥当性を解決するためには、他の書籍を見ながら、「ふむふむ」などとしなければならないだろう。そんな書籍も、時間もないので私はやっていないが、精読するならば、参考文献を手元におく必要がある。

 以下のサイトに、本書のためのチェックポイントのようなものがある。

英語教師のための認知科学・認知哲学

 「現在、常識・定説として何があるのか」ということをこのリストから考えることができる。読む際の助けとなるだろうと思う。私は読み終わってから知ったのだが……

Monday, August 27, 2007

知的複眼思考法

 量子力学ですな、こりゃ。

Amazon.co.jp: 知的複眼思考法

 社会学でも、社会現象の一般化というのであれば、その基礎・基本は科学と同じか。本書を読むにあたり、いくつかのレビューを見た。その中には「クリティカル・シンキング」であるとするモノがいくつかあった。私はクリティカル・シンキングに疎い。しかし、科学となれば違う。

 もし、私が本書から受けた印象、量子力学というものと、いくつか言及のあるクリティカル・シンキングというものが合致するのなら、理系人間はニュートン力学から量子力学へ移った理由を自分なりに理解できた、その感覚を再利用できる。

 思考法そのものの理解は困難ではない。しかし、これを利用するとなるとどうしても知識が鍵となる。知識がなければ、複眼的に問いを立てることができないだろう。そして、論理的一貫性を確保する力、それを批判する力。もっとも大切だと思われるのは、己の価値観や感情、情緒などの主観の扱い方だ。

 久しぶりに時間を忘れて読んだ。何度も読み直したほうがよい1冊だ。先日書いた、『英語教育7つの誤解』は英語教育に対する複眼思考法を実施している書籍だと思う。

Sunday, August 26, 2007

出席番号

 ほうほう。

ねたミシュラン 千葉県マジで?!

 マジらしい。まぁ、五十音順ってのもなんでかなぁって考えれば謎だ。

 小学校低学年では、早生まれに関することがあるので、把握し易いってのが理由として考えられる。その後は、それほど意味はないのだが、一貫性として公教育ではってところだろう。

 男女別で番号があてられていたのが、混合でとなった。変えようと思えば、いかようにも変えられるということだろう。

英語学習7つの誤解

 英語科教育法の授業でとりあげられた議題が散見する。そこでも意見が分かれることが多かったが、英語教育に携わる者としては常識的なことばかりである。

Amazon.co.jp: 英語学習7つの誤解 (生活人新書 229)

 まず、本書に示されている英語学習の誤解は以下
  1. 英語学習に英文法は不要である
  2. 英語学習は早く始めるほどよい
  3. 留学すれば英語は確実に身につく
  4. 英語学習は母語を身につけるのと同じ手順で進めるのが効果的である
  5. 英語はネイティブから習うのが効果的である
  6. 英語は外国語の中でもとくに習得しやすい言語である
  7. 英語学習には理想的な、万人に通用する科学的方法がある
 「7つで足りるのかなぁ?」と思っていたが、外国語教育に携わるものと学習者の間の壁としては十分だろう。それは、上記の7つに付け加えて、母語・外国語・第二言語、臨界期、英語で考える、などなど、分かるようで分からないことばについて解説してくれているからである。

 大津氏も平たく言ってしまえば脳科学者である。なので、脳科学についても言及がある。この部分を読むと残念な気持ちなる読者もあろうが、現状をきちんと説明しなくては脳科学の発達も停滞してしまうだろう。8月19日にフジテレビの「ボクらの時代」で川島隆太氏以下、脳科学者3人が出演していた。そこでも、脳科学をとりまく物事に憤りがあるような発言があった。一語一句覚えているわけではないので、脳内ソースから咀嚼。
「右脳幼児教育を全否定しない。そこには、経験的な何かに基づいて、ある程度の効果があるのかもしれない。しかし、その効果が脳科学や右脳により説明できているとは思えない。」

 こうなってくると、科学というものをどのようにとらえるかという問題になってしまう。科学的に証明されたなどと言われると、飛びつきたくなる気持ちは理解できる。しかし、「科学的とはどういうことなのか?」と考えると語学に関することほとんどは根拠が薄い。だから「リテラシーなのだ」となる。

 最近は「右脳」という冠のついた書籍はめっきり見なくなった。右脳と英語。これもよくよく考えると矛盾する。英語は論理的な言語といわれている。日本語は論理的でない。ならば、日本語こそ右脳の特徴をもった言語ではないだろうか?どちらが正しいか、間違っているのか、それは分からないが、これだけでも矛盾している。だから「英語脳」なのだろう。隙がない。流行廃りがあるもんだというのがよくわかる。

 さて、英語学習とは関係のないことを書いてきたが、本書の核はこれだと私は感じた。科学的という表現はいただけないが、効果のある人には効果のある学習法は存在するということだ。これは、現状の英語学習をとりまく環境には希望的な考え方ができると思う。

 なぜ希望的な考え方ができるのか。それは、とにかく色々な学習法が作り出されているということに尽きる。参考書にしても、一体、何種類あるのか分からないくらい世には存在する。その中にはひとつくらい、自分に合ったモノがあるのではないだろうか、そういう希望である。それゆえに、本書での最終章「あとは動機づけと目標設定」に続く。

 本書は、英語教員が怠っていたことを穴埋めするモノだと、私は思う。

 英語教員にしてみれば、「こんな本が、なぜ必要なの?」と思うのかもしれない。当たり前すぎるからだ。保護者や生徒から「あのね……」と問われて、はじめて、はっとするのかもしれない。教師側としては「言ったじゃない…、もう…」とも思うかもしれない。信用されてないのか、説明を怠ってきたのか、それは分からない。しかし、「じゃぁ、先生、どうすればいいの?」と問われたら、それはまた別の問題である。

Wednesday, August 15, 2007

だから、僕は学校へ行く!

「そういえば、乙武くんが教員免許とっているんだって」
「ん?それどんなイベント?」
 小学校の教諭をしている友人からの一言。

Amazon.co.jp: だから、僕は学校へ行く!

 私は乙武氏が教育界に踏み込んでくれたことに喜んだ。友人もゲストティーチャーとしてなら大歓迎だと言っていた。しかし、自分たちと同じ仕事をすることができるのかどうか、という点で疑問を持っていた。

 私は、現状の小学校の現場は皆目検討もつかない。しかし、友人のことばからは、かなりの困難があるだろうというのは容易に予測できる。もちろん、当の本人がそのことをよく理解しているということは本書を読めば分かる。

 私は本書をエッセイとして読んだ。なかには教育問題といわれるものに対して、氏なりに調べ解釈述べているものもあり、参考になることもある。そのなかで、特に響いた部分がある。pp.118にある「北の大地に見つけた『僕の過去』」という部分だ。

 この部分は教育とはあまり関係がない、と私は思っている。どちらかというと、大人としての心得というものだろうか。形は違えど、学校現場ではないにしろ、はっと気がつくことがある。それが、「北の大地に見つけた『僕の過去』」には端的に表現されている。

Monday, August 13, 2007

「工学」って……

 電気や機械でしょう?ってのが、共通の認識でしょうか。

T lounge blog::東京大学工学部広報室 - 人力検索はてな

 なかなか面白いことをしているなぁというのが正直な感想。で、現場では「もしかして……」ってのがあったのだろうなぁと、推測できる。

工学 - Wikipedia

エアコンなしで、この夏をのりきる

 私はエアコンが嫌いで、なるべく使わないようにしている。今年もこれのお世話になったことはない。あっ、家での話です。オフィスはガンガンです。

 コンピュータばかりのオフィスですからねぇ、エアコンがないと死んでしまいます。しかし、あの二酸化炭素が充満していそうな空間は、正直、耐えられません。あっ、飽くまで「気がする」だけです。実際は違います。

 サーバー室なんてサウナです。管理人はMy 扇風機を持参していましたが、気休めにしかなりません。部屋をでると森林に来たかのよう、錯覚を覚えます。そうそう、昔、学生実験で学生さんがコンピュータ実習の際に、エプロンを着用していたのを思い出しました。オフィスにも何人かいます。エプロンしている人。電磁波防護のやつです。でも、普通にケータイは耳に当てて使っています。

 さて、学校は図書室やコンピュータ室以外にはまず、冷房はないでしょう。あっ、私立は分かりません。なんだから、冷房なしで体を冷やすトリビアを教えてあげてもよさような気がするのですが、そこまでしていないようです。私もそのようなトリビアを教えてもらったことはありません。

夏休み特集 (1) エアコンなしに涼しく過ごす方法 | Lifehacking.jp

 いくつか、私も実践していることがありました。体幹温度を下げるってのは効果大です。私の理解では、血液を冷やすと思っているのですが、間違いないでしょうか?昔、熱中症の応急処置で、脇の下を冷やすと効率よく体温を下げことができるってなことを見聞きした記憶があります。「これ、使えるなぁ」ってので実践しだしました。

 消灯ってのも気持ちの問題かなぁと思っていたのですが、よくよく考えると、私の部屋は白熱球なので、効果大です。最近は、蛍光灯より白熱球のほうが明りとりのためには多いような気がしています。

 あとは、手っ取り早く清涼感を味わいたいときは汗を出すことでしょうか。そして、扇ぐ、扇ぐ、扇ぐ。社会人になってはじめて、「扇子って使えるなぁ」と、隣に座っている同僚を見て思いました。

LEFTEOUS

 本日、8月13日が「左利きの日」とは知りませんでした。

8月13日は「左利きの日」! 左利きのキモチになる | エキサイトニュース

 なにをするのか、あまりピンときませんが、記事によると

当日は趣旨に賛同した「DexeeDiner 渋谷店」、「ura.」など4つのカフェで、箸がいつもと逆向きに置かれます。


 ささやかな抵抗ですなぁ。私は反射的に反対にするクセがあるので、「あれ?」ってなりそうで逆に混乱しそうな気がする。まぁ、もれなく楽しめるイベントかもしれん。

 やるならもっと大胆にやってほしいなぁ。例えば、自動改札口の切符いれるところを左右逆転するとか。これは問題か……

Friday, August 10, 2007

反対のための反対と、私は受取った

 ( ̄ェ ̄;) エッ?

クールビズ:西岡武夫氏「廃止を」 小池防衛相への当て付け? 民主からも異論-行政:MSN毎日インタラクティブ

 「やっちゃったかぁ……」ってのが私の本心。反対のための反対を求めているわけじゃないんだけどなぁ……勘違いしちゃったのかぁ、残念だ。

 西岡氏は「制服の子供が参観しているのに大人がリラックスした格好をしていていいのか」と主張したが、与野党理事からは異論が相次いだ。


 リラックスって、クールビズってリラックスするのが目的でしたっけ?まぁ、なかにはそういう人もあろうが、それは飽くまで副産物でして、どちらかというと、国会に来る時は私服でが望ましいなどと学校へ「ご通達」してもよろしいのではないでしょうか?

 逆に、制服で参観に来た子どもたちを咎めるくらいでなくては、と思う。

 むしろ、制服を咎めてもいい。子どもたちは、長袖を着るのか半袖を着るのかも日付によって管理されている。これにはなんとも思わないのだろうか?今も「衣替え」なるしきたりがあるのかどうだかは知らない。

宇宙教育

 暑い、暑すぎる。とろけそうだ……m(_ _;m)

 期待できる科学教育が昨日(8月8日)の読売新聞・朝刊に載っていた。同じようなことを考えている人が、世の中には必ずいるものだと、改めて思った次第であります、はい。

無重力、人工衛星…謎に迫る : ニュース : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 「宇宙に関することなんて、何も役に立たないのではないか?」という声が聞こえてきそうだ。実際、私も実社会でどう役に立つのか、うまく説明できる自信はない。しかし、「これはよい」と思ったので、そのことを述べたい。

 「科学とは何ぞや?」ということが子どもたちに伝わるのではないか。なぜ理学博士がPh.D.なのかということも伝えられることができると思う。

Ph.D. - Wikipedia

 そして、宇宙のこととなると、アインシュタインは外せないと思う。アインシュタインの理解は、古典力学の理解、そして、直感的な宇宙の理解の助けとなると、私は考えている。これは、野口悠紀雄氏の言葉を借りると「パラシュート学習法」の効果があるのではないかということである。

 本日(8月9日)、Endeavour号が打ち上げられた。私は知らなかった。読売の記事もこれに合わせたのかもしれんけど、まぁ、それはいい。

スペースシャトル「エンデバー号」、打ち上げ成功

 搭乗員には現役教諭のBarbara Morgan氏が搭乗している。上記の記事にもあるが、1984年に「Teacher in Space」というプロジェクトが立ち上げられたが、86年のChallenger号の惨事があり延び延びになっていた。この授業を受けられる子どもたちは幸せモノである。羨ましいなぁと思うと同時に、私がこのように羨ましがられることはあるのだろうか?と鬱になってみる。

Tuesday, August 07, 2007

「学ぶ」から「使う」外国語へ―慶応義塾藤沢キャンパスの実践

 本書は『日本人はなぜ英語ができないか』(鈴木孝夫著、岩波新書、1999年)で関口一郎氏という名前を知り手にした。

Amazon.co.jp: 「学ぶ」から「使う」外国語へ―慶応義塾藤沢キャンパスの実践 (集英社新書)

 読後、本書をGoogleで検索してみた。いくつか書評があったが、否定的なものが多かった。はたしてほんとうにそうだろうか?

 本書の勉強方法、そのものは決して目新しいものではないだろう。それは、本書が発行された2000年当時であろうとも同じだろうと考える。しかし、本題はそこではない。大学の外国語課程で、SFCのような試みが行われていることに、まず、驚かなくてはいけない。

 私は大学へ行けば、中学や高校のような英語の授業を受けずに済むと思っていた。しかし、それは幻想であった。好きな授業を選べると思っていたが、はじめから受ける授業が決まっており、先生も決まっている。なんだこれはと強く憤慨した。しかもそれは、週2コマ、2年間が義務付けられている。苦痛以外の何物でもない。ささやかな抵抗として、英語母語話者の先生の授業を英語IIIで受講した。成績云々ではなかった。

「自分の専門はシェークスピアである。この分野についてのみ自分は自身を持って教えることができる。それが学者の良心ではないのか」
 と叱られた。……だが、教える相手は別にその先生を選択したわけではなく、ただ、英語を勉強したいと願っているだけの学生たちなのである。(pp.216)


 私が不満に感じたものそのものである。

 最近では、特色GPとして英語のみに焦点を当てて外国語教育を工夫している大学は多い。本書によるとSFCでは、英語、仏語、独語、西語、中国語、朝鮮語、インドネシア語の7ヶ国語である。力の入れようが根本的に違う。英語のみだと変に窮屈になってしまうような気がする。ニコニコした脅迫のようだ。

 戦後日本の新制大学の外国語教育のゆがみのひとつは、高度な外国語教育は文学部か外国語学部でしか受けられない、というところになる。…(省略)…外国語に関心がある多くの若者は、将来国際的な環境で活躍したいと思い、そのために必要な専門の学問と外国語能力を身につけたいと願っている。欧米ではむしろそのほうが一般的である。(pp.128-129)


 私は不勉強で本書にあるような主専攻、副専攻というシステムが日本の大学にあるのかどうかは知らない。それどころか、この言葉をつい最近知った。とてもよい制度だとうなだれたのを覚えている。

 経済界ではこのような人物が欲しいのであろう。そのために、小学校からの英語教育やコミュニケーション重視の英語教育を強く推し進めているものと考えている。大学が変われば、小学校から英語などという声はなくなるのかもしれない。

Saturday, August 04, 2007

経団連の考える「今後の教育のあり方」

 興味深い記事があった。日本経団連の東富士夏季フォーラムにて教育について話があったようだ。

「今後の教育のあり方」-第6回東富士夏季フォーラム<第1日>第1セッション

 第1部で、教育再生会議の池田守男氏による「社会総がかりでの教育再生に向けて(初等中等教育を中心に)」というタイトルの口演があったようだ。

 教育再生会議がどれだけの実行力を持っているのか、未だに不明瞭であるが、なかなか突拍子もないことを議論しているなぁというのが、私の感想である。

 教育の現場に「ガバナンス」の概念がないとあるが、ここでの「ガバナンス」とはどういう意味だろうか?真っ先に思いつくのは旧来の公務員体質のガバナンスはあろうにと、食いつきたくなるが、違うのだろう。この記事に書いてあるような「ガバナンス」が機能したとなると、かなり、殺伐とした空気になりそうな予感がする。成果主義下の企業のように。

 学習者第一とは、要は、成績が良くなるということに価値を置いている。成績に、テストの点数に評価のものさしが設定されたものだと認識する。そのために教員は努力せい、ということなのだろうけど、教員の研修や教育が完了した後でも、成績が上がらない生徒がいる場合、それは生徒の責任となるのだろう。「ああすれば、こうなる」という考えのもと、かなり無謀な世界観じゃないだろうか?

 「ゆとり教育」が「ゆるみ教育」になっているという指摘は同意する。ならば、「ゆるみ教育」を「ゆとり教育」に是正して、はじめて「ゆとり教育」の評価ができるのではないだろうか?「ゆとり教育」だって、唐突にはじまったわけではない。国立大学の付属小中なので、臨床実験が行われているはずだ。そこで、合格点が得られたからこそ、全国に広まったのではないのか?なぜ、国立大学の付属小中が入試制なのか?それは、度重なる方針転換に翻弄されぬ生徒を選別しているためである。

 よくよく見るとかなりフラットな会議だ。言いたいことを言いまくっている感じである。企業としては、優秀な社員が欲しい。チームワークが円滑にできるなど、人間関係に関する要求が教育内容に包括されている。なので、個性とか秀でた才能などの発言はない。それは第2部でもあるように、大学の仕事なのだろう。

 唯一、救いとなるような発言はこれ。

子どもに害となる刺激を抑制するのは企業の責任でもある。


 が、初等中等教育は労働奴隷養成所と化しそうである。

see also
さよならマルクス (内田樹の研究室)

縦糸横糸

 河合隼雄氏の訃報を受けて、本書と『無意識の構造』(中央公論新社 1977年)を手にした。

Amazon.co.jp: 縦糸横糸 (新潮文庫)

 数ある著書の中で本書を手にした理由は、よく分からない。なんとなく、ふと、手が伸びたのだ。動機は不明であるが、本書を手にしてよかったと思っている。

 本書は毎日新聞での月一コラムのまとめである。なので、必然的に時直の時事問題に対して言及する形となっている。しかし、古びた感はなく、問題の本質をとらえていると考えるのが妥当だと思う。

 養老孟司氏と同様に、明確に、「ああせい、こうせい」というのがないのが特徴である。そして、ある出来事に対して、「こういう見方もありますよ」という具合に、私にとっては新しい視点を作ってくれる。メディアの受け売りでしか知らないようなことは目からウロコ状態になること間違いなしだ。1996年から2003年までのコラムをまとめたものなので、冷静に見ることもできる。違う解釈を得るには時間も必要だ。そういう意味でも丁度よい時間だ。

 本書を読んでいて、ほとんど唯一といっていいが、赤線を引いた箇所がある。

深層心理学は他人のことをとやかく言うためではなく、自分を知るために、時にそれがいかに苦痛であっても、役立ててゆくためにできてきたものである。(pp.184)


 なんとなく、この一言が河合隼雄氏を表した言葉なのでないかと思った。そして、私の心理学に対する偏見や誤解が氷解したような気がした。本書の解説は茂木健一郎氏が「中心を外さないこと」というタイトルで書いている。彼も同じところを引用していた。すーっと染み込む言葉となった。

Friday, August 03, 2007

宗教の勧誘

 私も経験がある。ひとつはこの記事のように新興宗教、もうひとつは、韓国系キリスト教だ。

ブログちゃんねる:宗教の勧誘にノコノコと行ってきたわけだが

 いや、どきどきする。どこも同じようなやり方なのだなぁと思った。参考になると思うが、やはり一人で行くのは避けたほうがいいんじゃないって思った。

横綱として朝青龍、プロスポーツ選手として朝青龍

 朝青龍の処分が決まった。2場所出場停止と九州場所までの謹慎、そして、減俸である。私の率直な感想は「厳しいな」であった。

asahi.com:朝青龍、2場所出場停止の処分 日本相撲協会 - スポーツ

 8月2日付読売新聞・朝刊では事実上の引退勧告という見出しもあった。2場所の出場停止は力士にとってそうとう堪えることなのだろう。私は相撲が好きでよく見るのだが、怪我が癒えぬのに土俵に立つ力士は多い。理由は「相撲感が鈍る」というものらしい。それくらい、体を動かしていないと不安なのだろう。そのような世界観に2場所の出場停止は厳しい処分だと理解する。

 横綱は降格しない。自分の進退は自分で決めることを求められている。力士としては破格の扱いを受けるわけだが、横綱には成績だけではなれない。横綱審議委員会なるものがある。

横綱審議委員会 - Wikipedia

 横綱になるにはここで推薦されねば審議にもならない。朝青龍も例外ではない。上記のWikipediaに横綱推薦基準がある。

  1. 品格、力量が抜群であること
  2. 大関で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする
  3. 2場所連続優勝に順ずる好成績を上げた力士を推薦することができる


 トップに「品格、力量が抜群であること」とある。これがトップにあるということは、これが必要最低条件なのだろうと思う。横綱審議委員会では問題ないとして朝青龍を推薦したのだから、節穴という他ない。

 横綱には第何代という冠がつく。それだけ稀有なものなのだろう。横綱不在という理由のみで安易に横綱を作ってはいけない。そいういうことをファンは節度をもって示していかなければいけないのではないか?

 そして、「世論だから」という理由で朝青龍を横綱にしたのであれば、横綱審議委員会はまったく必要ない。邪魔なだけだ。彼らの本来の役割は、飽くまでストッパーだ。それ以外のなにものでもない。

 プロスポーツ選手としての朝青龍は一流である。それに異論はないだろう。そうなってくると、彼一人の問題とするのは如何なものか?特に横綱審議委員会、師匠の高砂親方には考えていただきたいことが多くある。

 今回のことはとても残念だが、今までも横綱の愚行が問題とされてきた。なぜ、火種が小さいうちに始末できなかったのだろうか?考えていただきたい。

養老孟司の“逆さメガネ”

 読後の妙なすっきり感が、不思議といえば、ふしぎだ。

Amazon.co.jp: 養老孟司の“逆さメガネ”

 なぜ不思議か?それは、まったくもって答えがでていないからだ。何の答えか?これは「教育」についての本である。なので、教育問題についての答えということになる。

 7月24日のNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』で次のような発言があった。

問題が分かれば、ほとんど解決している。あとは色々と試すだけ。


 前後の文脈は失念してしまったが、この言葉はなぜか耳に残っていた。きっと共感したのだろうと思う。そして、本書を読み、「あれ、おかしいなぁ」と……

 そもそも問題になるくらいだから、答え、教育の理想というモノがあるはずだ。でなければ問題なんぞあるはずない。理想からずれるから問題じゃないか。

 教育の理想ってなんだろう?私たちは教育で子供をどうしたいのだろうか?

 本書は、このような「ものさし」を提供してくれる。それを養老氏は「逆さメガネ」という言葉を使って表現しているが、学者らしい。科学の根っこだ。今ある教育問題、学力低下や理数離れ、英語教育、いじめ、生きる力、文章読解力などなど色々ある。ピンポイントで考えていてもなかなか答えがでそうにない。アインシュタインのように「光とはこういうものだ」と、掟破りの発想をしなければならないこともあろう。

Tuesday, July 31, 2007

格差時代を生きぬく教育

 タイトルに偽りあり。本書は寺脇研氏の思いをはいた本である。私がタイトルをつけるならば、「寺脇研 教育を語る」程度のものだ。

Amazon.co.jp: 格差時代を生きぬく教育

 「寺脇研って、誰?」というところから考えなければならない。寺脇研は元文科省の役人である。文科省のスポークスマン的存在としてメディアに露出していたので、知っている人は多いようだ。私が氏のことを知ったのは、「朝まで生テレビ」であった。テーマが何だったかは忘れてしまったが、「言うことはトンデモではない」という記憶だけがある。

 本書の内容もそれほど突拍子もないことを語っているようには受取れぬ。まっとうなことを述べている。

 第1章でゆとり教育について述べられているのだが、主要教科だけでは一生をまっとうできない、生涯学習の時代に入ったという認識から、生涯学習に必要な資質として「大人との交わり」や「美的感覚」が重要になると導いた。それが基本スタンスだと述べられている。

 「美的感覚」とは、私が本書から受取った感覚語なので、本書にはない言葉だ。本書では「マインド」という言葉がこれにあたる。これは問題設定能力と、本書からは解釈できるが、今で言う「生きる力」と同義語だ。これを育成するのに格差があってはならんというのが、ゆとり教育のコア。なぜ大反対されたのか、よく分からん。なぜ現場にうまく伝わらなかったのか、文科省の責任は思いと感じる。

 本書では寺脇氏個人の思いとは別に、役人として、公務員としてどうあるべきかという話しが、第2章にある。これが非常にむずかしいと感じる。役人としては全体を俯瞰の目で見なければいけない。しかし、本書では、「森を構成する木にも注意していますよ」というようなアピールがあるが、その範囲がえらい狭く感じた。が、これは他に書くことがないための揚げ足取りレベルだ。

 結局、この本は何が言いたいのか、私にはよく分からない。収穫があったのは「官僚的思考」の一端が見えたことか。寺脇研氏を知っており、ある種のラベル付けをしている人が本書を読むと、反対のベクトルに振り子が振られ、私のように混沌とするかもしれない。「まったくすっきりしない『踊る大走査線』の教育版」というのが、私の感想。

Saturday, July 28, 2007

危うし!小学校英語

 驚くほど分かり易く書かれているが、小学校英語教育に賛成の保護者に読んでもらえるのだろうか?

Amazon.co.jp: 危うし!小学校英語 (文春新書)

 なぜ保護者なのかというと、本書でも指摘があるように、この問題に対する世論の声の大部分は保護者であろう。それが文科省を動かしているという指摘が本書にある。疑問に思うのだが、文科省は保護者の声だけでここまで強固な姿勢を貫くのか?もうひとつ疑問に思うことは、保護者は小学校英語教育を帰国子女のような状態にすることと勘違いしているのではなかろうか?

 はじめの疑問に対しては、昨日、興味深い記事があった。

asahi.com:「入社時から給与に格差を」経団連会長、フォーラムで - ビジネス

 学校教育のゴールはおそらく社会人になることだ。そこからの要求は飲まねばならないだろう。

 次の疑問に対しては、「外国語は、早ければ早いほど効果がある」というのが動機になっていると考えると、全くの見当違いとはいえない。「帰国子女のような状態」ってなんだろうと考えると、「楽してモノにさせたい」ということだろうか。しかし、日本語でも「最近の若者の日本語はなっちゃいない」などというのがあるように、母語であろうとも楽というのはないだろう。

 本書では、「小学校英語」って一体なに?いま小学校で行われている英語と、必修化しようとしている英語教育ってどう違うの?小学校では誰が教えるの?そもそも日本における「英語教育」ってなに?そして、どうして反対なの?ということが、とくとくと述べられている。個人的には「第三章 誰が英語を教えるのか」と「第四章 日本の英語教育はどうあるべきか」は是非とも読んでもらいたい。

発音が日本人的だと、「この人は英語が母語ではなく、外国人として英語をしゃべっていますよ」という、ひとつの警告になる。(pp.192)


 私もこの言葉はよく使う。日本語を話す外国人と接する機会がある人は分かるのではないだろうか?

see also
文藝春秋|本の話より|自著を語る 欠陥だらけの小学校英語に唖然

Sunday, July 22, 2007

今週読んだ、その他本たち

 大相撲が終わると少し寂しくなる。

 琴光喜は、優勝は逃したが、何年越しなのだろうか、大関昇進を確定的にした。おじさん(といっても30代前半であるが)大関だ。来場所も強い琴光喜を見せてもらいたい。しかし、相撲はスポーツなのだが、やっぱり武道でもあるなぁと、最近、つくづく感じる。

 がっつり組んだ熱戦がやはり気持ちを刺激する。古典的な四つのがっつりした相撲がいい。安馬や豊真将が最近のお気に入りだ。見ていて清々しい。

 しかし、今日は暑い。とろけそうだ。先週はかなり心地よい気温だったので、何事もスムースだった。寝るのも最高に気持ちよかった。今日から寝苦しい夜が続きそうだ。私のキライな季節だ……orz

 さて、今週読んだ、その他本たち。


Amazon.co.jp: 反社会学の不埒な研究報告

 あいかわらず面白いなぁ、パオロは。個人的には「新作落語『長屋武士道』」が好き。だいぶ考えさせられた。タイムリーというか、なんというか、本日、以下のようなブログ記事が目に付いた。

今日行く審議会@はてな - こうしたレトリックに嵌らないこと

 元記事はこれから読むつもりだ……、多分ね……

 さて、筆者のHPでAmazonのレビューにつっこみが入れられている。

『反社会学の不埒な研究報告』正誤表

 こういうのは、読者に非常に有益だ。しかし、Amazonにレビューや感想を書くのは、私としてはおこがましいと思ってしまって、遠慮というか、敬遠してしまう。正直、あそこにさらすのは怖い。

茂木健一郎 クオリア日記: 情報倫理

 上記のブログでAmazonのレビューから、ネットの匿名性について述べられている。タイムリーが続く。


Amazon.co.jp: 心理学から学習をみなおす

 先日、『勉強法が変わる本』を読んだが、それの元となっているのが本書だ。とりあえず読んでみたが、前書を同じ内容なので、『勉強法が変わる本』を読むほうが経済的だ。まぁ、本書は100頁そこそこなので、短時間で読むのならこちらのほうがよいかも。まっ、時間の問題ではないが……


Amazon.co.jp: 英語攻略の「天敵」―動名詞・不定詞・分詞の再征服

 いわゆる「準動詞」にポイントを絞ってまとめたモノである。学校英語教育に沿った書き方をされているので、理解の足しにはなるだろう。

 準動詞は確かに、英語攻略の壁だと思う。先日、『英文法ゲーム104』を読んだときに感化されたのはこの部分だった。こいつをチャンクとして考えられれば、英語を読むのがずっと楽になるし、会話の際もずっと楽になる。

 しかし、本書はタイポが多い。なので、他の文法書とにらめっこしながら読むことになった。考え方に賛同できるだけに、もったいなと感じざるを得ない。と同時に、自分も気をつけなければいけないと再認識した。やはり単純ミスを頻発していては信頼は得られないと……