Wednesday, August 29, 2007

妖しい赤茶

 涼しい。長袖のシャツを出した。秋の虫の声が聞こえる。昨日の皆既月食は見ることができなかった。とても残念だ。しかし、あの雨のおかげで暑さから離れることができた。複雑な気持ちだ。

 昨日のニュースでは、北海道ではキレイに見ることができらしい。とてもはっきりと見えることに、チョット感動した。私は自分の目で見たことがない。知識としては知っているが、実際の様子も記憶にない。

2007年8月28日 皆既月食 ギャラリー

 あんなに妖しい赤茶色になるなんて。

 しかし、季節がガラッと変わってしまった。まぁ、また暑くなるだろう。

英語は「やさしく、たくさん」―中学レベルから始める「英語脳」の育て方

 やり直すのなら、とことん基礎から。

Amazon.co.jp: 英語は「やさしく、たくさん」―中学レベルから始める「英語脳」の育て方 (講談社パワー・イングリッシュ)

 著者の伊藤サム氏はジャパンタイムズ編集局次長、『週間ST』編集長という肩書きである(ソースは本書)。新人記者研修で行っている教育がベースとなっている学習法である。

 野口悠紀雄氏の「パラシュート勉強法」(『「超」勉強法』、講談社文庫、2000年)の視点から考える。野口氏のこれは分からないところは、とりあえず飛ばして、先へ進めといっている。そうすれば、基礎的なことへの「気づき」の視点が生まれるというもので、ひとつのトリガーを提供する自己学習法である。

 この「やさしく、たくさん」にも、この基礎への気づきという視点が含まれているように思われる。理由は新人記者が英語ネイティブであるということだ。基礎は難しい。それは、概念の理解になるのだから。抽象を具体へという変換作業をするためには知識が必要であるからだ。経験がなければ気づくことは難しいと思う。しかし、初学者には絶対的にそれが不足している。だから「たくさん」なのだ。

 「やさしく」の定義は難しい。本書では、はじめは、中学英語からと書いてあるが、自分が感じる「やさしい」を早く見つけることが必要だ。それはなにか?本書では「i + 1」と示している。iは自分の英語思考可能レベルとある。英語思考可能レベルとは、日本語を介さず英語で考えるということだろう。多くの人にとっては、これが中学レベルということらしい。

 さて、本書の内容は氏のホームページを基としている。

伊藤サム 英語の世界

 なので、それを読めば本書を手に取る必要はない。しかし、氏のサイトはお世辞にも読みやすいとはいえない。むしろ、本気で氏の教えを請うモノしか受け付けぬというメッセージのように思える。

Tuesday, August 28, 2007

言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか

 肉厚な内容。

Amazon.co.jp: 言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか (中公新書)

 「言語をサイエンスに」という酒井邦嘉氏の思いが色濃い。もちろん、その部分は賛成であり、情報工学での活用も考えられるので、丹念に研究がなされてほしいと思う。しかし、本書を見ると、翻訳ソフトはまだまだだなぁと改めて思う。

 この手のはなしは、分野別ではなく、時系列で述べてもらえると、私はすんなり理解できることが多い。分野ごとで述べられているのであるが、2章を読んでいるのに、7章に詳しいとか書かれていると「なんだかなぁ」となってしまう。まぁ、これは私の嗜好である。

 チョムスキーの言語生得説を仮定して論じてあるので、現在の言語学、認知言語学、応用言語学の問題点を知るのによい。本書では、今までの論文を言語生得説の立場から批判している。しかし、紙面の関係上、とてもあっさりした批判に終始している感が否めない。然るに、その妥当性を解決するためには、他の書籍を見ながら、「ふむふむ」などとしなければならないだろう。そんな書籍も、時間もないので私はやっていないが、精読するならば、参考文献を手元におく必要がある。

 以下のサイトに、本書のためのチェックポイントのようなものがある。

英語教師のための認知科学・認知哲学

 「現在、常識・定説として何があるのか」ということをこのリストから考えることができる。読む際の助けとなるだろうと思う。私は読み終わってから知ったのだが……

Monday, August 27, 2007

知的複眼思考法

 量子力学ですな、こりゃ。

Amazon.co.jp: 知的複眼思考法

 社会学でも、社会現象の一般化というのであれば、その基礎・基本は科学と同じか。本書を読むにあたり、いくつかのレビューを見た。その中には「クリティカル・シンキング」であるとするモノがいくつかあった。私はクリティカル・シンキングに疎い。しかし、科学となれば違う。

 もし、私が本書から受けた印象、量子力学というものと、いくつか言及のあるクリティカル・シンキングというものが合致するのなら、理系人間はニュートン力学から量子力学へ移った理由を自分なりに理解できた、その感覚を再利用できる。

 思考法そのものの理解は困難ではない。しかし、これを利用するとなるとどうしても知識が鍵となる。知識がなければ、複眼的に問いを立てることができないだろう。そして、論理的一貫性を確保する力、それを批判する力。もっとも大切だと思われるのは、己の価値観や感情、情緒などの主観の扱い方だ。

 久しぶりに時間を忘れて読んだ。何度も読み直したほうがよい1冊だ。先日書いた、『英語教育7つの誤解』は英語教育に対する複眼思考法を実施している書籍だと思う。

Sunday, August 26, 2007

出席番号

 ほうほう。

ねたミシュラン 千葉県マジで?!

 マジらしい。まぁ、五十音順ってのもなんでかなぁって考えれば謎だ。

 小学校低学年では、早生まれに関することがあるので、把握し易いってのが理由として考えられる。その後は、それほど意味はないのだが、一貫性として公教育ではってところだろう。

 男女別で番号があてられていたのが、混合でとなった。変えようと思えば、いかようにも変えられるということだろう。

英語学習7つの誤解

 英語科教育法の授業でとりあげられた議題が散見する。そこでも意見が分かれることが多かったが、英語教育に携わる者としては常識的なことばかりである。

Amazon.co.jp: 英語学習7つの誤解 (生活人新書 229)

 まず、本書に示されている英語学習の誤解は以下
  1. 英語学習に英文法は不要である
  2. 英語学習は早く始めるほどよい
  3. 留学すれば英語は確実に身につく
  4. 英語学習は母語を身につけるのと同じ手順で進めるのが効果的である
  5. 英語はネイティブから習うのが効果的である
  6. 英語は外国語の中でもとくに習得しやすい言語である
  7. 英語学習には理想的な、万人に通用する科学的方法がある
 「7つで足りるのかなぁ?」と思っていたが、外国語教育に携わるものと学習者の間の壁としては十分だろう。それは、上記の7つに付け加えて、母語・外国語・第二言語、臨界期、英語で考える、などなど、分かるようで分からないことばについて解説してくれているからである。

 大津氏も平たく言ってしまえば脳科学者である。なので、脳科学についても言及がある。この部分を読むと残念な気持ちなる読者もあろうが、現状をきちんと説明しなくては脳科学の発達も停滞してしまうだろう。8月19日にフジテレビの「ボクらの時代」で川島隆太氏以下、脳科学者3人が出演していた。そこでも、脳科学をとりまく物事に憤りがあるような発言があった。一語一句覚えているわけではないので、脳内ソースから咀嚼。
「右脳幼児教育を全否定しない。そこには、経験的な何かに基づいて、ある程度の効果があるのかもしれない。しかし、その効果が脳科学や右脳により説明できているとは思えない。」

 こうなってくると、科学というものをどのようにとらえるかという問題になってしまう。科学的に証明されたなどと言われると、飛びつきたくなる気持ちは理解できる。しかし、「科学的とはどういうことなのか?」と考えると語学に関することほとんどは根拠が薄い。だから「リテラシーなのだ」となる。

 最近は「右脳」という冠のついた書籍はめっきり見なくなった。右脳と英語。これもよくよく考えると矛盾する。英語は論理的な言語といわれている。日本語は論理的でない。ならば、日本語こそ右脳の特徴をもった言語ではないだろうか?どちらが正しいか、間違っているのか、それは分からないが、これだけでも矛盾している。だから「英語脳」なのだろう。隙がない。流行廃りがあるもんだというのがよくわかる。

 さて、英語学習とは関係のないことを書いてきたが、本書の核はこれだと私は感じた。科学的という表現はいただけないが、効果のある人には効果のある学習法は存在するということだ。これは、現状の英語学習をとりまく環境には希望的な考え方ができると思う。

 なぜ希望的な考え方ができるのか。それは、とにかく色々な学習法が作り出されているということに尽きる。参考書にしても、一体、何種類あるのか分からないくらい世には存在する。その中にはひとつくらい、自分に合ったモノがあるのではないだろうか、そういう希望である。それゆえに、本書での最終章「あとは動機づけと目標設定」に続く。

 本書は、英語教員が怠っていたことを穴埋めするモノだと、私は思う。

 英語教員にしてみれば、「こんな本が、なぜ必要なの?」と思うのかもしれない。当たり前すぎるからだ。保護者や生徒から「あのね……」と問われて、はじめて、はっとするのかもしれない。教師側としては「言ったじゃない…、もう…」とも思うかもしれない。信用されてないのか、説明を怠ってきたのか、それは分からない。しかし、「じゃぁ、先生、どうすればいいの?」と問われたら、それはまた別の問題である。

Wednesday, August 15, 2007

だから、僕は学校へ行く!

「そういえば、乙武くんが教員免許とっているんだって」
「ん?それどんなイベント?」
 小学校の教諭をしている友人からの一言。

Amazon.co.jp: だから、僕は学校へ行く!

 私は乙武氏が教育界に踏み込んでくれたことに喜んだ。友人もゲストティーチャーとしてなら大歓迎だと言っていた。しかし、自分たちと同じ仕事をすることができるのかどうか、という点で疑問を持っていた。

 私は、現状の小学校の現場は皆目検討もつかない。しかし、友人のことばからは、かなりの困難があるだろうというのは容易に予測できる。もちろん、当の本人がそのことをよく理解しているということは本書を読めば分かる。

 私は本書をエッセイとして読んだ。なかには教育問題といわれるものに対して、氏なりに調べ解釈述べているものもあり、参考になることもある。そのなかで、特に響いた部分がある。pp.118にある「北の大地に見つけた『僕の過去』」という部分だ。

 この部分は教育とはあまり関係がない、と私は思っている。どちらかというと、大人としての心得というものだろうか。形は違えど、学校現場ではないにしろ、はっと気がつくことがある。それが、「北の大地に見つけた『僕の過去』」には端的に表現されている。

Monday, August 13, 2007

「工学」って……

 電気や機械でしょう?ってのが、共通の認識でしょうか。

T lounge blog::東京大学工学部広報室 - 人力検索はてな

 なかなか面白いことをしているなぁというのが正直な感想。で、現場では「もしかして……」ってのがあったのだろうなぁと、推測できる。

工学 - Wikipedia

エアコンなしで、この夏をのりきる

 私はエアコンが嫌いで、なるべく使わないようにしている。今年もこれのお世話になったことはない。あっ、家での話です。オフィスはガンガンです。

 コンピュータばかりのオフィスですからねぇ、エアコンがないと死んでしまいます。しかし、あの二酸化炭素が充満していそうな空間は、正直、耐えられません。あっ、飽くまで「気がする」だけです。実際は違います。

 サーバー室なんてサウナです。管理人はMy 扇風機を持参していましたが、気休めにしかなりません。部屋をでると森林に来たかのよう、錯覚を覚えます。そうそう、昔、学生実験で学生さんがコンピュータ実習の際に、エプロンを着用していたのを思い出しました。オフィスにも何人かいます。エプロンしている人。電磁波防護のやつです。でも、普通にケータイは耳に当てて使っています。

 さて、学校は図書室やコンピュータ室以外にはまず、冷房はないでしょう。あっ、私立は分かりません。なんだから、冷房なしで体を冷やすトリビアを教えてあげてもよさような気がするのですが、そこまでしていないようです。私もそのようなトリビアを教えてもらったことはありません。

夏休み特集 (1) エアコンなしに涼しく過ごす方法 | Lifehacking.jp

 いくつか、私も実践していることがありました。体幹温度を下げるってのは効果大です。私の理解では、血液を冷やすと思っているのですが、間違いないでしょうか?昔、熱中症の応急処置で、脇の下を冷やすと効率よく体温を下げことができるってなことを見聞きした記憶があります。「これ、使えるなぁ」ってので実践しだしました。

 消灯ってのも気持ちの問題かなぁと思っていたのですが、よくよく考えると、私の部屋は白熱球なので、効果大です。最近は、蛍光灯より白熱球のほうが明りとりのためには多いような気がしています。

 あとは、手っ取り早く清涼感を味わいたいときは汗を出すことでしょうか。そして、扇ぐ、扇ぐ、扇ぐ。社会人になってはじめて、「扇子って使えるなぁ」と、隣に座っている同僚を見て思いました。

LEFTEOUS

 本日、8月13日が「左利きの日」とは知りませんでした。

8月13日は「左利きの日」! 左利きのキモチになる | エキサイトニュース

 なにをするのか、あまりピンときませんが、記事によると

当日は趣旨に賛同した「DexeeDiner 渋谷店」、「ura.」など4つのカフェで、箸がいつもと逆向きに置かれます。


 ささやかな抵抗ですなぁ。私は反射的に反対にするクセがあるので、「あれ?」ってなりそうで逆に混乱しそうな気がする。まぁ、もれなく楽しめるイベントかもしれん。

 やるならもっと大胆にやってほしいなぁ。例えば、自動改札口の切符いれるところを左右逆転するとか。これは問題か……

Friday, August 10, 2007

反対のための反対と、私は受取った

 ( ̄ェ ̄;) エッ?

クールビズ:西岡武夫氏「廃止を」 小池防衛相への当て付け? 民主からも異論-行政:MSN毎日インタラクティブ

 「やっちゃったかぁ……」ってのが私の本心。反対のための反対を求めているわけじゃないんだけどなぁ……勘違いしちゃったのかぁ、残念だ。

 西岡氏は「制服の子供が参観しているのに大人がリラックスした格好をしていていいのか」と主張したが、与野党理事からは異論が相次いだ。


 リラックスって、クールビズってリラックスするのが目的でしたっけ?まぁ、なかにはそういう人もあろうが、それは飽くまで副産物でして、どちらかというと、国会に来る時は私服でが望ましいなどと学校へ「ご通達」してもよろしいのではないでしょうか?

 逆に、制服で参観に来た子どもたちを咎めるくらいでなくては、と思う。

 むしろ、制服を咎めてもいい。子どもたちは、長袖を着るのか半袖を着るのかも日付によって管理されている。これにはなんとも思わないのだろうか?今も「衣替え」なるしきたりがあるのかどうだかは知らない。

宇宙教育

 暑い、暑すぎる。とろけそうだ……m(_ _;m)

 期待できる科学教育が昨日(8月8日)の読売新聞・朝刊に載っていた。同じようなことを考えている人が、世の中には必ずいるものだと、改めて思った次第であります、はい。

無重力、人工衛星…謎に迫る : ニュース : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 「宇宙に関することなんて、何も役に立たないのではないか?」という声が聞こえてきそうだ。実際、私も実社会でどう役に立つのか、うまく説明できる自信はない。しかし、「これはよい」と思ったので、そのことを述べたい。

 「科学とは何ぞや?」ということが子どもたちに伝わるのではないか。なぜ理学博士がPh.D.なのかということも伝えられることができると思う。

Ph.D. - Wikipedia

 そして、宇宙のこととなると、アインシュタインは外せないと思う。アインシュタインの理解は、古典力学の理解、そして、直感的な宇宙の理解の助けとなると、私は考えている。これは、野口悠紀雄氏の言葉を借りると「パラシュート学習法」の効果があるのではないかということである。

 本日(8月9日)、Endeavour号が打ち上げられた。私は知らなかった。読売の記事もこれに合わせたのかもしれんけど、まぁ、それはいい。

スペースシャトル「エンデバー号」、打ち上げ成功

 搭乗員には現役教諭のBarbara Morgan氏が搭乗している。上記の記事にもあるが、1984年に「Teacher in Space」というプロジェクトが立ち上げられたが、86年のChallenger号の惨事があり延び延びになっていた。この授業を受けられる子どもたちは幸せモノである。羨ましいなぁと思うと同時に、私がこのように羨ましがられることはあるのだろうか?と鬱になってみる。

Tuesday, August 07, 2007

「学ぶ」から「使う」外国語へ―慶応義塾藤沢キャンパスの実践

 本書は『日本人はなぜ英語ができないか』(鈴木孝夫著、岩波新書、1999年)で関口一郎氏という名前を知り手にした。

Amazon.co.jp: 「学ぶ」から「使う」外国語へ―慶応義塾藤沢キャンパスの実践 (集英社新書)

 読後、本書をGoogleで検索してみた。いくつか書評があったが、否定的なものが多かった。はたしてほんとうにそうだろうか?

 本書の勉強方法、そのものは決して目新しいものではないだろう。それは、本書が発行された2000年当時であろうとも同じだろうと考える。しかし、本題はそこではない。大学の外国語課程で、SFCのような試みが行われていることに、まず、驚かなくてはいけない。

 私は大学へ行けば、中学や高校のような英語の授業を受けずに済むと思っていた。しかし、それは幻想であった。好きな授業を選べると思っていたが、はじめから受ける授業が決まっており、先生も決まっている。なんだこれはと強く憤慨した。しかもそれは、週2コマ、2年間が義務付けられている。苦痛以外の何物でもない。ささやかな抵抗として、英語母語話者の先生の授業を英語IIIで受講した。成績云々ではなかった。

「自分の専門はシェークスピアである。この分野についてのみ自分は自身を持って教えることができる。それが学者の良心ではないのか」
 と叱られた。……だが、教える相手は別にその先生を選択したわけではなく、ただ、英語を勉強したいと願っているだけの学生たちなのである。(pp.216)


 私が不満に感じたものそのものである。

 最近では、特色GPとして英語のみに焦点を当てて外国語教育を工夫している大学は多い。本書によるとSFCでは、英語、仏語、独語、西語、中国語、朝鮮語、インドネシア語の7ヶ国語である。力の入れようが根本的に違う。英語のみだと変に窮屈になってしまうような気がする。ニコニコした脅迫のようだ。

 戦後日本の新制大学の外国語教育のゆがみのひとつは、高度な外国語教育は文学部か外国語学部でしか受けられない、というところになる。…(省略)…外国語に関心がある多くの若者は、将来国際的な環境で活躍したいと思い、そのために必要な専門の学問と外国語能力を身につけたいと願っている。欧米ではむしろそのほうが一般的である。(pp.128-129)


 私は不勉強で本書にあるような主専攻、副専攻というシステムが日本の大学にあるのかどうかは知らない。それどころか、この言葉をつい最近知った。とてもよい制度だとうなだれたのを覚えている。

 経済界ではこのような人物が欲しいのであろう。そのために、小学校からの英語教育やコミュニケーション重視の英語教育を強く推し進めているものと考えている。大学が変われば、小学校から英語などという声はなくなるのかもしれない。

Saturday, August 04, 2007

経団連の考える「今後の教育のあり方」

 興味深い記事があった。日本経団連の東富士夏季フォーラムにて教育について話があったようだ。

「今後の教育のあり方」-第6回東富士夏季フォーラム<第1日>第1セッション

 第1部で、教育再生会議の池田守男氏による「社会総がかりでの教育再生に向けて(初等中等教育を中心に)」というタイトルの口演があったようだ。

 教育再生会議がどれだけの実行力を持っているのか、未だに不明瞭であるが、なかなか突拍子もないことを議論しているなぁというのが、私の感想である。

 教育の現場に「ガバナンス」の概念がないとあるが、ここでの「ガバナンス」とはどういう意味だろうか?真っ先に思いつくのは旧来の公務員体質のガバナンスはあろうにと、食いつきたくなるが、違うのだろう。この記事に書いてあるような「ガバナンス」が機能したとなると、かなり、殺伐とした空気になりそうな予感がする。成果主義下の企業のように。

 学習者第一とは、要は、成績が良くなるということに価値を置いている。成績に、テストの点数に評価のものさしが設定されたものだと認識する。そのために教員は努力せい、ということなのだろうけど、教員の研修や教育が完了した後でも、成績が上がらない生徒がいる場合、それは生徒の責任となるのだろう。「ああすれば、こうなる」という考えのもと、かなり無謀な世界観じゃないだろうか?

 「ゆとり教育」が「ゆるみ教育」になっているという指摘は同意する。ならば、「ゆるみ教育」を「ゆとり教育」に是正して、はじめて「ゆとり教育」の評価ができるのではないだろうか?「ゆとり教育」だって、唐突にはじまったわけではない。国立大学の付属小中なので、臨床実験が行われているはずだ。そこで、合格点が得られたからこそ、全国に広まったのではないのか?なぜ、国立大学の付属小中が入試制なのか?それは、度重なる方針転換に翻弄されぬ生徒を選別しているためである。

 よくよく見るとかなりフラットな会議だ。言いたいことを言いまくっている感じである。企業としては、優秀な社員が欲しい。チームワークが円滑にできるなど、人間関係に関する要求が教育内容に包括されている。なので、個性とか秀でた才能などの発言はない。それは第2部でもあるように、大学の仕事なのだろう。

 唯一、救いとなるような発言はこれ。

子どもに害となる刺激を抑制するのは企業の責任でもある。


 が、初等中等教育は労働奴隷養成所と化しそうである。

see also
さよならマルクス (内田樹の研究室)

縦糸横糸

 河合隼雄氏の訃報を受けて、本書と『無意識の構造』(中央公論新社 1977年)を手にした。

Amazon.co.jp: 縦糸横糸 (新潮文庫)

 数ある著書の中で本書を手にした理由は、よく分からない。なんとなく、ふと、手が伸びたのだ。動機は不明であるが、本書を手にしてよかったと思っている。

 本書は毎日新聞での月一コラムのまとめである。なので、必然的に時直の時事問題に対して言及する形となっている。しかし、古びた感はなく、問題の本質をとらえていると考えるのが妥当だと思う。

 養老孟司氏と同様に、明確に、「ああせい、こうせい」というのがないのが特徴である。そして、ある出来事に対して、「こういう見方もありますよ」という具合に、私にとっては新しい視点を作ってくれる。メディアの受け売りでしか知らないようなことは目からウロコ状態になること間違いなしだ。1996年から2003年までのコラムをまとめたものなので、冷静に見ることもできる。違う解釈を得るには時間も必要だ。そういう意味でも丁度よい時間だ。

 本書を読んでいて、ほとんど唯一といっていいが、赤線を引いた箇所がある。

深層心理学は他人のことをとやかく言うためではなく、自分を知るために、時にそれがいかに苦痛であっても、役立ててゆくためにできてきたものである。(pp.184)


 なんとなく、この一言が河合隼雄氏を表した言葉なのでないかと思った。そして、私の心理学に対する偏見や誤解が氷解したような気がした。本書の解説は茂木健一郎氏が「中心を外さないこと」というタイトルで書いている。彼も同じところを引用していた。すーっと染み込む言葉となった。

Friday, August 03, 2007

宗教の勧誘

 私も経験がある。ひとつはこの記事のように新興宗教、もうひとつは、韓国系キリスト教だ。

ブログちゃんねる:宗教の勧誘にノコノコと行ってきたわけだが

 いや、どきどきする。どこも同じようなやり方なのだなぁと思った。参考になると思うが、やはり一人で行くのは避けたほうがいいんじゃないって思った。

横綱として朝青龍、プロスポーツ選手として朝青龍

 朝青龍の処分が決まった。2場所出場停止と九州場所までの謹慎、そして、減俸である。私の率直な感想は「厳しいな」であった。

asahi.com:朝青龍、2場所出場停止の処分 日本相撲協会 - スポーツ

 8月2日付読売新聞・朝刊では事実上の引退勧告という見出しもあった。2場所の出場停止は力士にとってそうとう堪えることなのだろう。私は相撲が好きでよく見るのだが、怪我が癒えぬのに土俵に立つ力士は多い。理由は「相撲感が鈍る」というものらしい。それくらい、体を動かしていないと不安なのだろう。そのような世界観に2場所の出場停止は厳しい処分だと理解する。

 横綱は降格しない。自分の進退は自分で決めることを求められている。力士としては破格の扱いを受けるわけだが、横綱には成績だけではなれない。横綱審議委員会なるものがある。

横綱審議委員会 - Wikipedia

 横綱になるにはここで推薦されねば審議にもならない。朝青龍も例外ではない。上記のWikipediaに横綱推薦基準がある。

  1. 品格、力量が抜群であること
  2. 大関で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする
  3. 2場所連続優勝に順ずる好成績を上げた力士を推薦することができる


 トップに「品格、力量が抜群であること」とある。これがトップにあるということは、これが必要最低条件なのだろうと思う。横綱審議委員会では問題ないとして朝青龍を推薦したのだから、節穴という他ない。

 横綱には第何代という冠がつく。それだけ稀有なものなのだろう。横綱不在という理由のみで安易に横綱を作ってはいけない。そいういうことをファンは節度をもって示していかなければいけないのではないか?

 そして、「世論だから」という理由で朝青龍を横綱にしたのであれば、横綱審議委員会はまったく必要ない。邪魔なだけだ。彼らの本来の役割は、飽くまでストッパーだ。それ以外のなにものでもない。

 プロスポーツ選手としての朝青龍は一流である。それに異論はないだろう。そうなってくると、彼一人の問題とするのは如何なものか?特に横綱審議委員会、師匠の高砂親方には考えていただきたいことが多くある。

 今回のことはとても残念だが、今までも横綱の愚行が問題とされてきた。なぜ、火種が小さいうちに始末できなかったのだろうか?考えていただきたい。

養老孟司の“逆さメガネ”

 読後の妙なすっきり感が、不思議といえば、ふしぎだ。

Amazon.co.jp: 養老孟司の“逆さメガネ”

 なぜ不思議か?それは、まったくもって答えがでていないからだ。何の答えか?これは「教育」についての本である。なので、教育問題についての答えということになる。

 7月24日のNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』で次のような発言があった。

問題が分かれば、ほとんど解決している。あとは色々と試すだけ。


 前後の文脈は失念してしまったが、この言葉はなぜか耳に残っていた。きっと共感したのだろうと思う。そして、本書を読み、「あれ、おかしいなぁ」と……

 そもそも問題になるくらいだから、答え、教育の理想というモノがあるはずだ。でなければ問題なんぞあるはずない。理想からずれるから問題じゃないか。

 教育の理想ってなんだろう?私たちは教育で子供をどうしたいのだろうか?

 本書は、このような「ものさし」を提供してくれる。それを養老氏は「逆さメガネ」という言葉を使って表現しているが、学者らしい。科学の根っこだ。今ある教育問題、学力低下や理数離れ、英語教育、いじめ、生きる力、文章読解力などなど色々ある。ピンポイントで考えていてもなかなか答えがでそうにない。アインシュタインのように「光とはこういうものだ」と、掟破りの発想をしなければならないこともあろう。