Wednesday, July 23, 2008

偽りにはこころは震えぬ

 ふぅ、暑い。昨日までの比較的過ごしやすい陽気はどこへやら。

 ふと新聞のテレビ欄を見ると NHK の深夜に The Championships, Wimbledon 2008 の総集編が放送していたらしい。ちょっと見たかったなぁと後悔したが、それで思い出した。6連覇がかかった Roger Federer の試合中の姿勢が忘れかけた姿に思えたことを。

 今大会の決勝はとても面白かった。2ゲームを先取し、Rafael Nadal のマッチポイントを目前に踏ん張る Roger Federer。幸か不幸か雨で suspended になる。このときも Rafael Nadal はマッチポイント目前であったが、 Roger Federer は振り切る。もつれにもつれたが、好ゲームであった。

 ゲーム内容もさることなが、選手の試合に臨む姿勢、態度がよかった。

 私の印象なのではあるが、その姿が昔のお相撲さんに見えた。淡々とし、インタビューに対してもろくに笑いもせず、金太郎飴のようなことばを並べる、その姿がよみがえった。

 しかし、だからこそ漏れ出すような、あふれ出すような、不意にでる大きな声や握りこぶしが魅力的に見えた。Roger Federer がめずらしく吼えるシーンに感情も満場拍手でこたえる。なぜだかわからないが、心地よかったのを思い出した。観るほうも一流なのだなぁとあとで思った。

 そういう意味で、私がお相撲さんのやり取りをみて「つまらん」と思っていたのは、私が未熟だったからだと考えた。すこしは成長できているのかしら。

 大相撲は名古屋場所の最中である。おもしろみもなく淡々と進んでいる、ようだ。

森達也 『世界を信じるためのメソッド―ぼくらの時代のメディア・リテラシー』

Amazon.co.jp: 世界を信じるためのメソッド―ぼくらの時代のメディア・リテラシー (よりみちパン!セ): 森 達也: 本 理論社の「よりみちパン!セ」シリーズ、森達也の第2弾である。前著がよかったので読んでみた。前回同様、「考えること」を考えらさせられる1冊だ。

 本書のテーマはメディアリテラシー、ちょっと前に盛んに連呼されていたことばである。最近、トンと聞かなくなった。流行り廃りは怖いと思う。

 忘れないこと。知ること。見ること。聴くこと。

 そのためには何が必要か?もうわかるよね。メディアが必要だ。だからメディアを正しく使おう。あなたたちは大人の予備軍だ。あっというまだよ。すぐに大人になる。誰かが答えを教えてくれる時間は終わる。自分で考えて、自分で決めて、自分で動かなくてはならなくなる。そのときにまた、同じ過ちをくりかえすかどうかは、メディアの使いかたにかかっている。(pp. 153)


 本書を「メディアを斬る」的なものに矮小化しないでもらいたい。

 前回は知ることを丹念に述べていた。私はそれをヨーロッパの国語教育のようだと述べた。本書はそれを発展させた形である、複眼的なものの見方を問う。

 アメリカの大学に留学した体験エッセイなどを読むと、「とにかく本を読まされる」、「レポートを大量に書かされる」などという苦労話が多い。それは本書のような複眼的なものの見方の訓練である。

 複眼的なものの見方はクリティカルシンキングだとか、批判的思考法だとかいろいろな呼び名がある。ざっくりまとめると、疑え、つっこめということだ。そこら辺の書籍は腐るほどある。探せばいくらでも見つかる。しかし、そのベースとなる文章を文章のまま読む、理解するという作業が軽視されている、と私は感じている。なので『いのちの食べかた』はすばらしいと感じた。そして、これがヨーロッパの国語教育だと述べた。欧米では小学校の国語授業は文章を文章のまま読む、理解することに時間を費やす。これは退屈でつまらない作業である。これが大切であることは、批判的に読めなどと言われてはじめて気がつくことかもしれない。私はそうであった。

 テレビや雑誌、新聞なのどのメディアを相手に論を進める。私も知らない裏側があり、大変勉強になる。

Monday, July 21, 2008

梅雨らしい日和

 昨日の夜から過ごしやすい。いかにも梅雨らしい空模様なのだが、不快ではない。ピーカンよりは好きである。しかし、洗濯物が乾かないのには驚いた。

 昨夜の THE OPEN は面白かった。私の心情としては、Greg Norman に優勝してもらいたかった。現実はそうはいかない。それがリアルでおもしろい。

 iTunes に取り込んでいない CD をとりこむ。えらい時間がかかる。新しい PC であればこんなに時間はかからないのだろう。待ち時間がもどかしい。

 とりあえず、読書の時間にする。たまりにたまった読みたい本が崩れそうである。どれから手をつけてよいのかわからない。買ったら即読まなければいけないなぁと反省する。

 どうして買ったのかわからない本が結構な数ある。興味の消費期限が過ぎてしまったのだろう。そういった本の処分に悩んでいる。本年は、まだ、32冊しかこのブログに感想を書いていないようだ。一応、倍くらいは読んでいるのであるが、ここに書きたい本が少ない。まだまだ眼力がない。まだまだ、授業料である。

岡潔 / 小林秀雄 『対話 人間の建設』

Amazon.co.jp: 対話人間の建設 (1965年): 岡 潔, 小林 秀雄: 本 岡潔と小林秀雄の対談本だ。岡潔は数学者であるが、多くのエッセイなどで身近な存在だと思われる。藤原正彦氏の登場により、現代にもどっしりと根を下ろした感が、私にはある。

 身近な存在であると思われる岡潔の対談本ではあるが読めた感じがしない。本書には前書きであったり、あとがきであったり、注釈であったりというのが皆無だ。昔の本(本書は昭和40年発行)ではデフォなのか?現在の懇切丁寧な解説や注釈のつきまくった本を読んでいるとストレスたまりまくりだ。と同時に、自分に対して情けないと思うしまつである。

 さて毎度のことであるが教育に絡めて読んでいるので、もがきながらも個人的には光ることばだと思われるものを記したい。

 のっけからだがこんなことばがある。

いまは学問が好きになるような教育をしていませんね。だから、学問が好きという意味が全然わかっていないのじゃないかな。(pp. 3)


 これは、小林秀雄のことばだ。1965年でも現代と同じようなことがいわれている。別に驚くことではない。ふたりのやりとが面白い。岡潔は、学校の先生が学問を好むということが分からないのではないかという。耳の痛いはなしだ。

 小林秀雄が酒の話をふる。岡潔はそれを受けこう答える。

個性が出るようにするにはどうするかということを教えなければいけないのでしょうね。個性がなくなりました。(pp. 18)


 何度このセリフを聞いただろうか。40年前の懸念が現在の課題であることは、あまりにもサボりすぎである。これを受け、直感、情熱、勘などということばでてくるが、

勘は知力ですからね。これが働かないと、一切がはじまらぬ。(pp. 21)

 岡潔の発言である。ここから一気にスピードがあがる。私は心地よい子守唄の中へ迷い込んだようだった。実際、この件を読んでいる最中に寝た。気持ちよかった。

 岡潔の情緒論が展開される。先の知性の件から、具体と抽象の話になり、小林秀雄はベルクソンとアインシュタインの論争にかけて

ニュートンにおける時間とか空間とかいう考えは、未だぼくらの常識として、普通の言葉で言ってわかるのです。日常経験の抽象化としての時空の観念だからでしょう。ところがアインシュタインまでになると、言葉にならなくなる。近ごろの波動力学までくると、もっと言葉にならない。(pp. 38)


 これに答えて岡潔は

最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をもとに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです。(pp. 39)


 これがなんの論文なのか、私は知らない。しかし、岡潔の情緒ということばはなしを指しているのかおぼろげながら見えた。

 岡潔はこのようなこともいっている。

いまの人類文化というものは、一口に言えば、内容は生存競争だと思います。生存競争がないようである間は、人類時代とはいえない、獣類時代である。しかも獣類時代のうちで最も生存競争の熾烈な時代だと思います。(pp. 50)


 思い切り腑に落ちる。

 さて、小林秀雄による自然科学への批判がはじまるのだが、このことばが興味深い。

近ごろの数学はそこまできたのですか。(pp. 41)


 この一言でふたりはだいぶ近い位置にいるのだなぁとわかる。なので、建設的な対談が展開されている。だが、私にはこのことばたちを噛み砕くには時間が必要だ。これを書きながらでも頭の中ではあんなことや、こんなことがふわふわしている。

 最後に、素読教育について。

 現在でも、音読がよいともっぱらのうわさで、学校教育やらなんやらとにもかくにも音読、音読、音読といった風潮がある。私はこれに賛成の立場であるが、この対談の締めくくりが「素読教育の必要」となっているのは興味深い。

話が違いますが、岡さん、どこかで、あなたは寺子屋式の素読をやれとおっしゃっていましたね。一見、極端なばかばかしいようなことですが、やはりたいへん本当な思想があるのを感じました。(pp. 166)


 これを受けた岡潔の返答は、「記憶力がよい時期に…」というニュアンスの返答しか読み取れないのだが、小林秀雄はこう付け加える。

暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。<中略>私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。(pp. 168)


 お説の通りだと思います。

Thursday, July 17, 2008

右クリックで発音チェック - Pronounce

 よさげな Firefox のアドオンである。

Mozilla Re-Mix: ページ上の英単語を発音させることができるFirefoxアドオン「Pronounce」(3.0対応)

日本のユーザーでも英語のページを閲覧するなどは当たり前ですが、単語の意味はある程度わかるものでも、読み(発音)がわからないものってありますね。

「Pronounce」は、そういう場面でFirefoxに英単語を発音させることができるアドオンです。


 私も導入してみたが、レスポンスもよいし使えるかもしれない。

吉本隆明 『真贋』

Amazon.co.jp: 真贋: 吉本 隆明: 本 糸井重里に感化され、読んでみた。なので私は、吉本隆明なる人物がどのような人なのか知らない。いくつか書籍があるようなので、パラパラめくり物色する。「まえがき」の文章でこれに決めた。

この問題に関して僕の考え方は、一貫している。いじめるほうもいじめられるほうも両方とも問題児だ、ということだ。(pp. 3)


 ほとんど同じ文章をほぼ日で読むことができるので引用は省く。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 日本の子ども

 この件には、記憶の片隅にあった苦い思い出やらなんやらがよみがえる。

 私は本書を教育に絡めて読んだ。なので、ちょっとひっかかるポイントが違うかもしれない。

 「教える毒」ということば。これは真だ。私も日頃から疑問に思っていることであった。「いいことをさりげなく、悪いことは大げさに」というのは同じ想いだ。

 母子の関係が頻繁に出てくる。吉本氏は昔の(一世代前の)日本の子育てはまともだったという。私は子育て事情に明るくない。なので今現在、どのような育てかたがはやっているのか分からない。そもそも、流行り廃りがあるのかどうかも怪しい。しかし、本書に書かれている日本流のあまやかし、西洋流の自立の対比はよく分かる。どちらか一方ではなく、両方とも必要なことなのは誰もが知っているだろう。

養老孟司 / 佐治晴夫 『「わかる」ことは「かわる」こと』

Amazon.co.jp: 「わかる」ことは「かわる」こと: 養老 孟司, 佐治 晴夫: 本 Amazon のレビューがよかったので読んでみた。

 とりとめのない「雑談」だ。そういうと悪い印象のようであるが違う。顔なじみの教授がふらっと入ってきて、「よう」などと挨拶をかわし、研究室の休憩スペースでコーヒーでも飲みながら雑談している教授たちのはなしを遠くから聞いているような感じであった。養老孟司氏、佐治晴夫氏の弟子が対談の仕掛け人ということもあって、そういう先入観もあったのかもしれない。

 さて、内容であるが、まずは「はじめに」の文章にこころ打たれる。

わが国の文・理分割教育は、理系から伸びやかな感性を、文系からは美しい論理の言葉を抹消してしまいました。(pp. 8)


 対談の仕掛け人である的場美芳子氏が、佐治氏から聞いたことばだという。何年前に的場氏が聞いたか分からないが、今現在でもこのことは生きている。なぜ生きているのかというと、学校システムが変わっていないからだ。

 養老氏は教育界をこういう。

教育の世界というものが人間関係だけになったということが、よーく理解できた。これはまともな世界じゃないと思いましたよ。(pp. 69)


 私はこの部分に共感する。この件で述べられていることは、大抵「無駄」とか「不必要」と思われているのではないか?『モモ』でも痛烈に批判している部分だ。モンスターペアレントということばがある。このような教育のつけではないかと考える。

 佐治氏と養老氏の総括としてはこの部分だと思う。

佐治 だからそれはやはり、養老先生がおっしゃったことを繰り返すことになりますけど、「どうなんですか」と聞くということは、相手の話を聞いていないということであり、なおかつ考えていないということになるんですよね。裏返すとそういう表現になる。だから、そうやって聞くということはものすごく恥ずかしいことなんですよ。

養老 そういう感覚がないんです。(pp. 194)

「Visual Audio Intelligent Organizer」

 久しぶりに購買意欲に駆られる VAIO が発売される。「VAIO type Z」だ。

type Z | 製品情報 | 個人向け | VAIOパーソナルコンピューター | ソニー

 前にも書いたかもしれないが、私は VAIO SRX を使っている。なので、こやつのご先祖様を使っていることになる。type T が発売されたときも心ときめいたが、今回の type Z はそれ以上だ。

 ぱっと見た感じ、Mac Book に似ているなぁという印象がある。まだ実機を見ていないし、触ってもいないので分からないけれども……

 VAIO ブランドの定義は「Video Audio Integrated Operation」だったという。

GPU切り替え可能な13.1型ワイドノート「VAIO type Z」など ソニーがCentrino 2採用ノートを発表 - 日経トレンディネット

 再定義で「Visual Audio Intelligent Organizer」に改められたという。Intelligent が一体何なのか気になるところだ。私個人の意見として、近年の PC は Mac を筆頭に Visual Audio ないし Video Audio Integrated という路線であったように思う。正直なところ、どものブランドが何をしようと Sony や Apple には追いつけない。この2つの牙城であろう。

 ならば、違う方向へ考える必要がある。なのでひとつ。モバイル PC でも「縦長ディスプレイ」が必要だ。プログラムを組むときは猛烈に欲しくなる、縦長ディスプレイ。それに、ブログなどの文章を読むときには縦長は理想だろう。既存の技術でもなんとかなりそうだし(素人考えです)、差別化をはかるのはそのようなことを考えるのもありではないか?

 そうそう、こいつで Leopard は動かないのかね、Intelligent Organizer 君?

さよなら、SMU-S1

 前回のエントリはいつだっただろう?そのときも暑いと書いたような気がするが、例外なく本日も暑い。昨日、一昨日と熱帯夜である(たぶん)。

 先週からマウスの調子が悪い。いやそれ以前から調子が悪かった。使っていたやつはこれの赤。

SMU-S1 | 光学式マウス | マウス | コンピューター | カタログ情報 | ソニー

 いつ買ったのか忘れてしまった。google さんに聞いてみると2002年発売とある。そんな昔だったのか。使い心地よく、できれば継続して使用したかったが売っていなかった。できれば復活してもらいたい。

 まず、中クリックが反応なしになる。まぁ、あまり実用に差支えがないのでスルーする。後、ホイールがおかしくなる。反応したりしなかったり。そして、完全に反応しなくなる。それでも、まぁ、実用に差し支えないので、これもスルー。そして、右クリックが3回に1回くらいの成功率になる。これも押しかたを工夫すれば9割くらいは成功するのでスルー。しかし、左クリックの挙動がおかしくなり、実用に影響がではじめた。タッチパッドはあるが、私はマウスがないと仕事にならない。背に腹は変えられぬ。

 で買ったのがこれの黒。

ハイブリッド光学式マウス Mサイズ | BSMOC01Mシリーズ

 あやしいカタチをしているが、意外と使いやすい。左手でもっても違和感がないのは驚いた。私の持ちかたが変なのか?大きさは迷ったが、サンプルを触っている感じでは M のほうがいい感じであった。

 横の「BUFFALO」の文字がダサダサで気に入らないが、まぁ、よしとしよう。

 個体差かもしれないが、右クリックのときにひっかかる。そのうち滑らかになるのだろうか?それとも交換を申し出たほうがよいのか?

Saturday, July 12, 2008

よくわからない

 ひさしぶりにゴロゴロと雨がふる。涼しくて気持ちがよかった。すぐ止むと分かっているから、忌々しい雨ではない。そういえば梅雨は明けたのだろうか?

 「ゲド戦記」が NTV で放送されていたので見る。

 これは面白いの?原作を読んでいないので、まったくの白紙状態で見たのだが、「なにがどうしたの?」という感じであった。原作読んでいないと楽しめないのでしょうか?まぁ「もののけ姫」のときもそう感じた。何度か見れば何かつかめるかもしれない。しかし、内容よりも気になることがあった。たびたびセリフが聞き取れない。あっ、私は日本語ネイティブです。

 iPhone 3G が発売された。ネット界隈も TV でも騒がしい。iPod touch と何が違うのでしょうか?よく分かりません。もちろん、電話機能のあるなしは大きい。でも、iPod touch は Wi-Fi でネットにつながったはず。できることの違いは電話くらいなものだろ。えっ、違うんですか?

Monday, July 07, 2008

藤田英典編 『誰のための「教育再生」か』

Amazon.co.jp: 誰のための「教育再生」か (岩波新書 新赤版 1103): 藤田 英典: 本 「教育改革」ということばにどのような印象を受けるだろうか?ポジティブだろうか?ネガティブだろうか?このような質問自体ばかげている。

 本書は安倍政権が行った「教育再生」改革に対する警戒である。警戒どころではない。強い危機感と書いてある。なにがそんなに問題なのだろうか?それがトツトツと述べられている。

 まず学力テストについて。全国一斉学力テストは無駄どころが有害そのものである。学校の商品化、子どもと教師にストレス、新しい差別の危険というのが述べたれている。

 教員免許更新制については、教師の仕事が子どもや社会に対する「責任」から納税者への「サービス」へ変わったことがことの発端だとある。「サービス」へ変わったことが、指導力不足教師や不適格教師をクローズアップさせる。「こやつらをどうにかできないか?」というのが、教員免許更新制である。

国際的に見て、免許更新制を採用している国はアメリカだけです。<中略>アメリカは長年にわたって、大量の無資格教員の存在に苦慮し続けてきました。現在でも南部の州や都市部のマイノリティ居住区においては、無資格教員が三割に達する学区も少なくないという現実があります。免許更新制は、それらの教師に研修の機会を保障し、資格取得を促進するために必要な制度として機能しているのです。(pp. 74)


 ゼロトレランスについては、次のひとことに集約させてもよいと思う。少々長いが引用させていただく。

「子どもの権利条約の精神的な父」(ユニセフ)といわれるポーランドの孤児院経営者ヤヌシュ・コルチャックは、おとなの側の「自制心」こそが子ども同士の規範意識を育てる、と主張しました。<中略>子どもには「失敗する権利」「過ちを犯す権利」があります。<中略>能力上、経験上の未熟さから生じる数々の「失敗」「過ち」は、それ自体が子どもとしての特性であり、成長発達に欠かせない「糧」となるものです。もし、子どもの「失敗」「過ち」を許容する「寛容さ」が失われたら、子どもは人間として成長してゆく大事な機会を失うことになります。(pp. 114 - 115)


 学校選択制については、「強者の論理」による教育再編という。これについて、私は勉強不足で自分なりの咀嚼ができていない。なので、簡潔に書かれていることを述べると、「強者の理論」による教育再編は公立校のあり方を変えてしまう恐れがある。公立校は一元的なものさしで比べられるようになり、教育がゆがむ。

 心の支配については、06年の教育基本法改正により、政府であっても教育に対する党派的な介入を行ってはならないという、禁止法としての教育基本法の意義を大幅に取り除いた(pp. 147)ことに絡めて論が進む。

 私は以前、教育関係者には経済の知識が必要だと述べた。これは、フィンランドの教育改革が経済をうまく取り入れたと考えたからだ。本書で展開されている安部政権による教育改革は経済原理に基づいている。学校選択制などはそれほど悪いものには見えない。しかし、経済という補助線を引くとウラの顔が見えたような気になる。

 分かりきっていることではあるが、結局「なかのひと」の力ということになる。

Sunday, July 06, 2008

スイートスポット

 地震がおきると、我が家ではいつも発せされることばがある。

 「最近、地震増えたね」

 いつと比べているのかわからない。昔はそんなに地震がなかったのか、それも知らない。あまり深い意味はないのだろう。地震が起きたときのあいさつみたいなものだろうと、私は思っている。

 昨日地震があった。やや大きめの地震。私が住む地域では震度3であった。茨城県では震度5弱という大きな揺れであったが、大きな被害は起こっていないようである。ニュースが靜かなのがその証と思っている。

 天気予報があたらない。雨が降ると脅かされて傘ないし、なんらかの雨具を持ち歩くがほとんど使わない。ここ2、3日は「雨が降る」という予報をみると嬉しくなる。なぜか?とにかく暑い。雨が降れば、幾分かは涼しくなる。が、期待は裏切られる。やはりここ2、3日、扇風機が大活躍である。PC の冷却関連も考えなければならない。

 寒ければ、寒いことをなげき。暑ければ、暑さに憂う。スイートスポットということばがある。スウィートなのかもしれないが、この際どうでもよい。イチローがテレビで言っているのを聞いた。私の理解では、打った感覚はそれほどないのにボールがよく飛ぶ、そんな感じのイメージを喚起することばである。気温に関してのスイートスポットは、暑くもなく寒くもなくといったところだろう。

 今現在、スイートスポットを完全に外れている。赤くなった顔と縞模様に焼けた腕を見てがっかりする。

Saturday, July 05, 2008

証明書

 証明書というといろいろあるが、宇都宮市でこんなことがはじまった。

宇都宮市:先生に名札義務化 不祥事続き「自覚高めて」 - 毎日jp(毎日新聞)

宇都宮市は教職員の不祥事が続いたことから今月、市立小中学校に勤務する職員約2850人に対し、市職員としての自覚を高め不祥事を防止しようと顔写真付き職員証の携帯を義務付けた。3日は、全小中学校長計93人が出席して職員証の交付式があった。

 あってもなくてもどっちでもよいのであるが、顔写真付きの職員証の携帯義務の範囲はどこなのだろう?学校内か?それとも年中か?

 これは1次報告が5月頃にでて「なんだこりゃ?」と思っていたので覚えている。

職員証で自覚うながす 宇都宮市教委 不祥事予防に重点 - MSN産経ニュース

教職員の不祥事をめぐっては、昨年度、市立小学校男性副校長が女子児童に対してわいせつ行為を行ったほか、中学校女性教諭による体罰などで計13人が懲戒処分などを受けており、平成9年度以降、17年度と並び最も多かった。

 このような状態ならば、これらの予防策が提案されてもおかしくはない。ならばこちらにも必要だろう。

時事ドットコム:県職員が600万円着服=文化庁の援助金-栃木

 栃木県は2日、県教委文化財課の30代の男性職員が文化庁の援助金約600万円を着服していたと発表した。職員は着服を認めた上で「住宅ローンがあった。おわびしたい」と話しているという。県は告訴も視野に調べている。
 県教委によると、援助金は文化財修復に使うもので、この職員が通帳を管理していた。2007年度に交付された計約600万円を今年3月と5月の2度に分けて引き出していた。

 「よそはよそ、うちはうち」というお母さんメソッドは通用するか?やるほうもやるほうならば、課すほうもう課すほうである。

ジリジリ、コンガリ

 じりじりと日差しが痛い。久しぶりの暑さ。肌が焼かされているのがわかる。自転車が億劫に感じられた。夏がきた。子ども達の声がキャキャしている。夏がきた。

 季節代わりは前から感じていた。通る道を変えたからだ。私が住む地域は自然が多い。なので爬虫類がよく道端で死んでいる。何度か大きなかえるやへびが死んでいた。あまり見たくないので舗装された道や住宅街を選んでいる。夏の一つ嫌なところだ。

 公立図書館の Web 検索システムが新しくなった。喜ばしいことだ。

 以前は、CD や DVD は Web から予約ができなかった。それができるようになる。しかし、改善されたわりには UI の使いづらさはあいかわらずだった。2008年7月に新しくはじめられたサービスで、IE6 以上という制約はともかく、Netscape 4.7x / 6.1 以上という制約は時代にマッチしているだろうか?「戻る」機能お断りとはいかがなものか?検索結果一覧を見ると、複数ページにまたがる。一番下までスクロールすると「次へ」のボタンがない。一番上まで戻らなくてはいけない。開発者も疑問に思わなかったのだろうか?それとも高解像度ディスプレイを対象にしているのだろうか?なぞである。

Tuesday, July 01, 2008

ミドルサンデー

 EURO 2008 は Spain の勝利で幕を閉じた。Torres が決勝の Man of the Match に選ばれたようだが、当然だろう。代表チームでも、あのようなプレーをするのだから、クラブチームの試合が面白くないわけがない。

 さて、日曜深夜は EURO の決勝であったのだが、テニスの全英オープンも開催されている。日曜はお休みだったので、私は「EURO の決勝だからお休みなのかなぁ?」などと下世話なことを考えていた。だが、違うらしい。ミドルサンデーという伝統があるようだ。

NHKウィンブルドン2008 ウィンブルドンよもやま話のページ

 私が知るかぎりでは、スポーツなどで日曜日にお休みというのを知らない。EURO は日曜日にファイナルがくるようスケジューリングされている。当然だと思う。意外だったのでメモメモ。