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Sunday, December 28, 2008

古山明男 『変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない』

Amazon.co.jp: 変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない: 古山 明男: 本書名にピンときて手にした。
どこかで見たことがあるとおもったからだ。
ビンゴ!
購読しているブログのタイトルであった。
そこの著者が書いているらしい。

変えよう!日本の学校システム 

とてもおもしろい本であった。
「教育問題はシステムの問題」
この持論が展開されている。
私の常識だと、これは、
「ゼロベースで教育を見直そう」
となる。
これが本書の基本スタンスだ。

第2部がおもしろい。

目次
第1部 行き詰まった日本の教育
不登校は制度公害
入試制度の一人歩き
個性尊重の教育はできるのか
第2部 中央集権無責任体制 日本の学校システム
中央集権にして無責任
手足をもがれた教育委員会
院政体制を敷く文部科学省
教師の自主性が発揮されない学校
意見を言えない保護者・住民
『教育基本法』の精神
第3部 成熟社会のための教育システム
学校を作る自由
イギリス型かフィンランド型か
教育費全面無償への道
教育主権在民の確立を

いまの教育システムを見てみると
「教育委員会はなぜあるのだろうか?」
とふと疑問がわく。

文科省と現場のパイプ役
にでもなっていればいいのだが、
パイプにすらもなっていない。
私はそう思っていた。

文科省、教育委員会、学校
この三すくみが諸悪の根源。
責任者が見当たらない。
文科省が責任者だろうと
思われるかもしれないが、

教育における指揮系列のピラミッドは巨大である。日本中の公立学校がひとつのピラミッドになっている。
文部科学省→都道府県教育委員会→市区町村教育委員会→学校
というピラミッドである。
ところが、このピラミッドには、頂点である文科省の位置づけがはっきりしないという、とんでもない問題がある。
「文科省は教育委員会に対しても学校に対しても正式な指揮権限を持っていない」のである。(pp.102)


なぜか?というと理由がある。

教育委員会は新制度の重要な柱であり、六・三制とともに発足するはずであった。しかし、教育委員会をどのようなものにするかで、どうしても議論がまとまらない。そのため、教育委員会の発足は六・三制より一年遅れる。この一年の差が大きかった。文部省がすべてを管轄する仕組みが先にできてしまい、それを裏付ける法令群もできてしまう。
そこに教育委員会ができてきたが、教育委員会の最大の仕事であるはずの「学校基準設定」と「カリキュラム作成」は、文部省が握って話さない。(pp.113)


文科省はいらない子だったのだ。
なので、存在意義を示し続けなければ
いけないのだ。

「文科省がいらない子だ」という解決法は
多くの人が考えると思う。
私も考えたが、すぐに他の手段を考える。
あまりにもコストがかかるからだ。
なぜなら、文科省ありきが
暗黙の前提となっているからだ。
なぜだかわからない。
少なくとも、私の常識ではそうである。

しかし法制定の時分、
文部省は教育普及のために適した機関であった。

教育における民意反映は、教育委員会に残された重要な仕事である。ところが、当時の最大の課題は、戦災復興と中学の義務教育化、高校の増設などであった。<略>「とにかく教育普及を」の時代であり、この時代は組織力と効率性が必要とされていた。民意反映の必要は、さほど切実なものではなく、むしろ教育委員会があることによる非効率が問題とされることが多かった。(pp.113)


この時代、この条件下での
文部省の存在は大きい。
しかし、政治問題なのか
官僚の権力争いなのか
文部省は教育実行者として
重い腰を下ろした。

教育とは文化現象であり、国家統制、官僚統制になじまない。教育者の使命は、宗教家、学者、芸術家などと同じ性質のものである。だから、学校が上級下級の行政官庁の命令系統の中に組み入れられてはいけないのである。学校は自治的に運営されるべきである。小学校から大学にいたるまで、学校の種類の間に、官庁のような上下関係があってはいけない。所管する官庁と学校との間にも、官庁的な上下関係があってはいけない。(pp.178)


上記の引用は、最近の教育者のことばではない。
教育基本法制定当時の田中耕太郎文部大臣の
教育基本法第十条の解釈である。
しかし、この法律解釈が戯言かの如く
綿々と不当な支配が続けられている。

勉強不足を痛感。
同様な書籍をもう何冊か読みたい。

Thursday, July 17, 2008

養老孟司 / 佐治晴夫 『「わかる」ことは「かわる」こと』

Amazon.co.jp: 「わかる」ことは「かわる」こと: 養老 孟司, 佐治 晴夫: 本 Amazon のレビューがよかったので読んでみた。

 とりとめのない「雑談」だ。そういうと悪い印象のようであるが違う。顔なじみの教授がふらっと入ってきて、「よう」などと挨拶をかわし、研究室の休憩スペースでコーヒーでも飲みながら雑談している教授たちのはなしを遠くから聞いているような感じであった。養老孟司氏、佐治晴夫氏の弟子が対談の仕掛け人ということもあって、そういう先入観もあったのかもしれない。

 さて、内容であるが、まずは「はじめに」の文章にこころ打たれる。

わが国の文・理分割教育は、理系から伸びやかな感性を、文系からは美しい論理の言葉を抹消してしまいました。(pp. 8)


 対談の仕掛け人である的場美芳子氏が、佐治氏から聞いたことばだという。何年前に的場氏が聞いたか分からないが、今現在でもこのことは生きている。なぜ生きているのかというと、学校システムが変わっていないからだ。

 養老氏は教育界をこういう。

教育の世界というものが人間関係だけになったということが、よーく理解できた。これはまともな世界じゃないと思いましたよ。(pp. 69)


 私はこの部分に共感する。この件で述べられていることは、大抵「無駄」とか「不必要」と思われているのではないか?『モモ』でも痛烈に批判している部分だ。モンスターペアレントということばがある。このような教育のつけではないかと考える。

 佐治氏と養老氏の総括としてはこの部分だと思う。

佐治 だからそれはやはり、養老先生がおっしゃったことを繰り返すことになりますけど、「どうなんですか」と聞くということは、相手の話を聞いていないということであり、なおかつ考えていないということになるんですよね。裏返すとそういう表現になる。だから、そうやって聞くということはものすごく恥ずかしいことなんですよ。

養老 そういう感覚がないんです。(pp. 194)

Monday, July 07, 2008

藤田英典編 『誰のための「教育再生」か』

Amazon.co.jp: 誰のための「教育再生」か (岩波新書 新赤版 1103): 藤田 英典: 本 「教育改革」ということばにどのような印象を受けるだろうか?ポジティブだろうか?ネガティブだろうか?このような質問自体ばかげている。

 本書は安倍政権が行った「教育再生」改革に対する警戒である。警戒どころではない。強い危機感と書いてある。なにがそんなに問題なのだろうか?それがトツトツと述べられている。

 まず学力テストについて。全国一斉学力テストは無駄どころが有害そのものである。学校の商品化、子どもと教師にストレス、新しい差別の危険というのが述べたれている。

 教員免許更新制については、教師の仕事が子どもや社会に対する「責任」から納税者への「サービス」へ変わったことがことの発端だとある。「サービス」へ変わったことが、指導力不足教師や不適格教師をクローズアップさせる。「こやつらをどうにかできないか?」というのが、教員免許更新制である。

国際的に見て、免許更新制を採用している国はアメリカだけです。<中略>アメリカは長年にわたって、大量の無資格教員の存在に苦慮し続けてきました。現在でも南部の州や都市部のマイノリティ居住区においては、無資格教員が三割に達する学区も少なくないという現実があります。免許更新制は、それらの教師に研修の機会を保障し、資格取得を促進するために必要な制度として機能しているのです。(pp. 74)


 ゼロトレランスについては、次のひとことに集約させてもよいと思う。少々長いが引用させていただく。

「子どもの権利条約の精神的な父」(ユニセフ)といわれるポーランドの孤児院経営者ヤヌシュ・コルチャックは、おとなの側の「自制心」こそが子ども同士の規範意識を育てる、と主張しました。<中略>子どもには「失敗する権利」「過ちを犯す権利」があります。<中略>能力上、経験上の未熟さから生じる数々の「失敗」「過ち」は、それ自体が子どもとしての特性であり、成長発達に欠かせない「糧」となるものです。もし、子どもの「失敗」「過ち」を許容する「寛容さ」が失われたら、子どもは人間として成長してゆく大事な機会を失うことになります。(pp. 114 - 115)


 学校選択制については、「強者の論理」による教育再編という。これについて、私は勉強不足で自分なりの咀嚼ができていない。なので、簡潔に書かれていることを述べると、「強者の理論」による教育再編は公立校のあり方を変えてしまう恐れがある。公立校は一元的なものさしで比べられるようになり、教育がゆがむ。

 心の支配については、06年の教育基本法改正により、政府であっても教育に対する党派的な介入を行ってはならないという、禁止法としての教育基本法の意義を大幅に取り除いた(pp. 147)ことに絡めて論が進む。

 私は以前、教育関係者には経済の知識が必要だと述べた。これは、フィンランドの教育改革が経済をうまく取り入れたと考えたからだ。本書で展開されている安部政権による教育改革は経済原理に基づいている。学校選択制などはそれほど悪いものには見えない。しかし、経済という補助線を引くとウラの顔が見えたような気になる。

 分かりきっていることではあるが、結局「なかのひと」の力ということになる。

Wednesday, June 11, 2008

宮本哲也 『強育論』

Amazon.co.jp: 強育論-The art of teaching without teaching-: 宮本 哲也: 本 本書を読んだ多くの人は「なんて乱暴な」と思うかもしれない。なぜそう思うのかというと、私もそういわれているからである。

 本書はタイトルのとおり「強い人」をつくることを目指している。つくるとは乱暴な言い方であるが、ひらがなにしたことで許してもらいたい。「強さ」を「育む」で強育、うまい当て字だと感心する。しかし、このタイトルが、私にとっては足かせとなる。まぁ、それはどうでもよい。「強い人」とはなにか?自ら伸びる人ということか。

 本書には宮本氏の塾での指導内容が詰め込まれているようだ。本書を読んで、大村はま氏の著書を読んだときと同じような気持ちになった。大村氏の著書では、「『静かにしなさい』ということばは、教師として敗北宣言である。」という、強烈なことばが印象的であった。

 宮本氏のスタンスも同じだ。本書ではそれを「緊張感」としている。緊張感を出すために塾ではどうしているのか、緊張感を保つために家庭はどうあるべきか、がとつとつと書かれている。

 大村氏との共通点として注目したいのは、教材のすばらしさだ。大村氏は自らせっせと教材つくり、教科書研究を怠らなかった。宮本氏も自作のパズルなど、入塾生の興味を惹くために努力している。その姿をかつて、『情熱大陸』でみた。英語教育では田尻悟郎氏も自作の教材が有名である。よい教師、よい授業の最低条件なのかもしれない。頭が下がる。

 本書の内容は読まずとも頭に入ってくる。おかしな表現であるが、私の素直な感想だ。ベクトルは同じ方向を向いていると思っている。

 私は本書のようなスタンスを「ゆとり教育」と思い込んでいた。齟齬があるわけだ。

Thursday, April 03, 2008

齋藤孝 『齋藤孝の相手を伸ばす!教え力』

Amazon.co.jp: 「齋藤孝の相手を伸ばす!教え力」: 斎藤 孝: 本 先日、塾講師の教え方の本について書いた。確かに見習わなければならないところが多い。しかし、学問として教師教育に携わっている人たちはダメなのか?というわけで、読んでみた。

 著者は齋藤孝氏、メジャーどころである。国語の先生というイメージが強いが、「はじめに」でもふれているように、氏の専門は「教育者教育」である。安河内哲也氏とは対極である。教師の力量低下に関して、コアな部分を担ってきた先生はどう思っているのか?

 まず、本書がどのような位置づけなのか、「はじめに」に以下の記述がある。

以前、『教師=身体という技術』(世織書房)という本を書きましたが、これは専門書であり、教職以外の方にとっては距離が遠く、説明しきれない部分がありました。そこで、一般の方向けに、「教える」という行為を解説してみたいと考え、この本を執筆することにしたのです。(pp.5)

 専門書ではないが、内容は同レベルであると考えよさそうである。このようなことを書くからには、以前書いた書籍の内容を、一般の人に近い形にしたと考えるのが素直だと思ったからである。

 学問として「教育者教育」を研究している大学教授と塾講師で地道に培ってきた教え方は、どのように違うのか?当然であるが、同じである。違うところを探すほうがむずかしい。強いてあげるならば、学習環境に生徒の身体を考慮しているかどうかがあげられる。

 安河内氏は、自分の努力によるんだという、徹底した自己批判を貫いているように思える。場の雰囲気を和ませるのは、己の話術、雰囲気、所作などなど、自分が変わることで相手の過度な緊張を解くと読める。

 齋藤氏は、それプラス、生徒の身体を考慮している。これも氏の専門のひとつである。呼吸法や四股は有名かもしれない。このような記述がある。

学ぶ側の構えというのは、空間的、時間的にかなり制約されるものです。(pp.170)

同じように、教室内が寒すぎたら暖める、熱ければ窓を開けて冷やす。基本は、酸素量に気をつけるということです。(pp.170)

 安河内氏にとっては、あまりにも当たり前すぎて書かなかったのかもしれない。予備校の設備がどのようなものか、私は知らない。公立の小中よりはマシだとは思うが。安河内氏は、メンタル部分についてよく書かれており、齋藤氏はフィジカル部分についてもよく書かれている。私が、見つけた違いはこの部分である。

 3色ボールペン風にいうなれば、本書は緑が多かった。そういえば、本書には3色ボールペンが一言も出ていない。

Wednesday, April 02, 2008

安河内哲也 『できる人の教え方』

 公立教員の力量が問題視されている。最近では、「教え方」を塾講師に学べといわれている。

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 : 「大人の学び」を科学する: 早稲田アカデミー・教師力養成塾に行ってきた!

 というので、読んでみた。

Amazon.co.jp: できる人の教え方: 安河内 哲也: 本 著者の安河内哲也氏は東進ハイスクールの講師である。しかも、「カリスマ」である。確か、『AERA English』にコラムかなにかを書いていたと思う(不正確な記憶です。間違っていたらごめんなさい)が、それで予備校の英語講師なのだなぁということは知っていた。東進ハイスクールがどんなところだかは知らない。氏の著書ははじめて読む。なので、詳しいことは Wikipedia にまかせる。

安河内哲也 - Wikipedia

 エピローグの「『モグリ教師』の私を育ててくれた人々」にこんな記述がある。

 学生時代は教える仕事で忙しく、「教育心理」も「教育原理」も中途半端にしかきいていませんでした。大学4年生のころは予備校が忙しく休みがとれず、教育実習にも行けず、教員免許すらもっていません。(pp.222)

 さて、内容は氏の我流の教え方である。我流と聞いてどう思うだろう。「なんだ」と思うか、「ふむふむ」と思うか。上記引用の発言でますます「なんだ」と思う方もあるかもしれない。

 はなしは変わるが、重松清氏の発言は興味深い。重松氏は教育に関する著書が多い。そのためか、「教員免許も持っていないの」云々との反応が多いらしい。しかし、重松氏は教員免許をもっている。それを告げるとおとなしくなるらしい。

 なにが言いたいか?教員免許が「なんぼのもんじゃい」ということである。だから、専門家にはもっと発言してもらいたい。最近では、苅谷剛彦氏や尾木直樹氏などが、ポピュラーでメジャーな専門家になりつつある。もっともっと発言してもらいたいのだ、私は。

 なぜか?教育分野の研究はフィールドワークだからだ。

 政治や外交に関することなどの街角インタビューなどをニュースで見ていて感じることがある。「なんで、みんながみんな、政治家や官僚みたいな目線で意見するのだろう」と。「もっと、身近な出来事でいいじゃないか。それをメタな知見にするのが政治家の仕事だろう」と思ってしまう。教育についても同じである。教育分野の研究はフィールドワークである。そのことを、私たちは理解しなければならない。

 さて、内容であるが、そんなにスゴイことが書いてあるわけではない。おおよその人が、教える際に考えるであろうことが書かれている。ということで、「初心忘るべからず チェックリスト」のような扱いがよろしいと思う。なかでも、面白いものをいくつか

ある実験によると、講師が「この生徒たちの能力は高い」と思い込んで講義をした場合に、実際の受講生たちの能力よりもよい成果が表れたそうです。(pp.118)

 プラシーボ効果かしら?どのような実験なのか、出典が明記されていないので分からない。まぁ、経験則から「あるだろう」とは言えそう。「感化力」と関係がありそう。

 配布資料をマジックに喩えて

だからこそ、配布資料には、その日に教える「大事なこと」は書かないで、穴埋め形式にしておくのが鉄則です。(pp.107)

 確かに、これなら生徒を講義に集中させられるとともに、資料が捨てられることもない。そしてこれには、

単語や熟語の意味を調べるであるとか、英文をダラダラと和訳してノートに書くといった行為は、一見、勉強のようにみえなすが、これは「勉強」ではありません。「作業」です。(pp.107)

という、氏の考えに則っている。

 以下は、予備校講師の方がシビアな問題かもしれない。

人に教えるという行為は、規模の大小を問わず、ボロクソに言われ、ノイジー・マイノリティーの餌食になるのです。(pp.162)

 これで、自殺した新任教師がいた。本書にある「70% の満足度がとれれば、100% みたいなものだ」(pp.160)ということばは、学校にはない。教師ひとり一人が、肌身離さず持ち歩いていなければならないことばなのかもしれない。

 筆者のスゴイところは、これを実践していることだ。で、教員が予備校講師の学ぶことといえば、「勉強すること」に集約されそうな気がする。予備校講師は、とにかく勉強しているようだ。本書を読むと、それだけで、気持ち悪くなりそうなくらい勉強している。公立の教師と比較して、タイムスケジュール、シーズンスケジュールがどうなっているのか興味深い。昨日(4月1日)の『プロフェッショナル 仕事の流儀』にとりあげられていた中村勇吾氏のシーズンスケジュールは教師向けだと感じた。

Tuesday, February 19, 2008

7人の特別講義プロジェクト&モーニング編集部 『ドラゴン桜公式副読本 16歳の教科書』

 16歳という思春期の本としては聞きなれない年齢がターゲットになっている。16歳と釘打っている理由は巻末資料に書かれている。

Amazon.co.jp: ドラゴン桜公式副読本 16歳の教科書~なぜ学び、なにを学ぶのか~

 ドラゴン桜公式副読本らしい。ドラゴン桜のコミックもドラマも見ていない私にとっては、本書で述べられていることがドラゴン桜の名物講師にそっているのかどうかなど二の次である。

 本書の講師は7人。国語は金田一秀穂氏、数学は2人、鍵本聡氏、高濱正伸氏、英語は大西泰斗氏、理科は竹内薫氏、社会は藤原和博氏、課外授業は石井裕之氏である。豪華な特別講義だ。一人ひとりの印象的なことばを引用したい。

 ます、金田一秀穂氏

美しさや情緒なんて、しょせんはご飯のふりかけみたいなもので、ベースとなるのは正確無比な文章なんですよ。(pp.24)

 先日読んだ、三森ゆりか氏の『外国語で発想するための日本語レッスン』と同じようなトレーニング法が書かれている。「絵をことばで書く」は正に同じ。もうひとつ、金田一先生のはなしで好きなのが「辞書を作ると仮定してください。『右』ということばをどう説明しますか?」というのがある。こういうの好きです、私。お気に入りの答えは、「この辞書の奇数ページ側です」という答え。「やられた!」と思った。

 数学は例外的に二人でして、その一人の鍵本聡氏。括弧つきで計算問題となっている。平たく言うと算数だろう。

 でも、数学で学ぶのは、「知識」じゃないんです。
 もっと根っこのところにある「数学的思考」、つまり、ものの考え方や論理の進め方などを学ぶのが、数学という学問なんですね。(pp.50)

もうひとりの数学担当、高濱正伸氏は図形問題担当となっている。

 そしてやる気のある状態、つまりたのしくてたまらないというシチュエーションの中で、どうやって補助線が浮かぶような状態をつくっていくか。
 これを突き詰めていくと、外遊びに尽きるように思うんですね。(pp.82)

 うまい具合に相互依存になった。当然といえば、当然だ。最近強く、思うのは高濱氏のことばの方で「遊び」を認めないといけない。学校は座学だけで成り立っていたのは、放っておいても遊んだからだ。バランスがとれていた。今は、体を使った遊びを学校へ取り組まないとバランスがとれないのではないかと考えている。

 英語の大西泰斗氏。

 それは英語で読書すること。難しい本を読めってことじゃないんだ。最初のうちは童話でもいいし、なんとかポッターとかでもいい。教科書以外の、「ネイティブがネイティブに向けて書いたもの」を読む習慣をつけてほしいんです。(pp.119)

 なにも言うことはあるまい。

 理科(物理)の竹内薫氏。

それから物理学の中には「間主観性」という考え方があるんですよね。(pp.149)

 ともて難しいことをいっていると思う。理科は客観を理解するところからはじまる。その行き着く先が間主観性である。「はて、なんだろう?」ということになるだろう。高校では相対性理論も量子力学もやらないから気がつく人は限られているだろう。ちなみに竹内氏は「化学はダメ(苦手)」といっている。

 社会の藤原和博氏。

 でも、実際に [よのなか] 科が導入されている学校は、まだまだ少ない。これを読んでいる読者の大半は、そういう授業を受けられる環境にないと思う。
 そこでどうすればいいかといったら、なにより大事なのは良質な「遊び」ですね。(pp.175)

 上の高濱氏と似たようなことをいっている。同じような主張がふたつ入っているのは心強い。しかも、片方は校長先生である。

 最後は、セラピストの石井裕之氏。

 自己暗示という言葉には、大きな誤解が潜んでいます。
 (略)
 これはなぜかというと、ほんとうに大丈夫だったら、わざわざ「大丈夫だ」なんて言わないんですね。本当に受かる人、合格間違いなしと確信を抱いている人は「オレは受かるんだ」なんて言わない。(pp.194)

 はぁ、納得。確かにそうだ。誤解していたが、私はあまり実践していない。

 自分の得意分野、「これなら負けない」というものをつくっていくコツは、「部分から攻める」ことです。(pp.208)

 これは最近、うまい比喩をみつけた。どこで見つけたかは失念してしまったがこんな感じであった。「山は、高くなるために裾野が広がったのではない。高くなったから裾野が広くなったのだ」

 ビートたけしがこのようなことを言っていた。

大学の教授なんかは若いやつにやらせないとダメ。逆に、小学校なんかはじいさん、ばあさんにやらせたほうがいいんじゃないと思うよ。

 これ、感覚的にいいなぁと思っていたのだが、つながった。

Friday, February 01, 2008

福田誠治 『競争しても学力行き止まり イギリス教育の失敗とフィンランドの成功』

 タイトルにあるように、イギリス教育の失敗とフィンランド教育の成功を示した書籍である。本書のBGMは稲葉浩志の『THE RACE』(from 『Peace Of Mind』)がぴったり。

Amazon.co.jp: 競争しても学力行き止まり イギリス教育の失敗とフィンランドの成功 [朝日選書831] (朝日選書 831)

 なぜイギリスとフィンランドを比べているのか?安倍晋三前首相が教育再生を提言した際に、ロールモデルとしてイギリスの教育、特にサッチャーの教育改革を示したからだ。では、イギリスで行われた教育改革はどのような結果になったのだろうか?それを知らずして安倍前首相の教育改革指針は見えてこない。

 本書の構成は、イギリス教育の現在を教育改革の影響から考察。改革前の教育比較となる。興味深い。そして、フィンランド教育思想と比較をし、フィンランド教育の考察。前者をアングロサクソン・モデル、後者をフィンランド・モデルと本書ではしている。これらふたつのモデル考察を受け、日本の教育はどこに着陸するべきかと続く。

 本書を読んでいて、ひとつの補助線が思い浮かんだ。経済、そしてそのメタになるであろう欲望だ。

 アングロサクソン・モデルとフィンランド・モデルは経済より特徴づけられた。ご存知のようにイギリスの通貨はポンドだ。ユーロではない。ヨーロッパはイギリス対EUのような関係対立が成り立つ。その考察が第3章にある。

 そして全体としては、学力は欲望値になっていると感じた。1位を目指す。結構なことだと思う。しかし、1位は相対的な価値観でしかない。売り上げ1位と変わらない。シェア1位と変わらない。メタな意味では、1位とは他者より優れているということだ。他者が、強いていえば敗者がいてはじめて価値がある。学力もそれと一緒だ。

 イギリスが1988年に教育改革をはじめた。1988年教育改革法という。それ以前は、今日のフィンランドとそっくりだという。今現在、イギリスでは大学で昔の面影を持った教育を行っている。それがせめてもの救いなのかもしれない。しかし、義務教育課程では画一的な競争により教育の成果を評価している。世界はひとつの基準で評価される。経済であり、お金である。そしてこれは、青天井の欲望である。

 日本で低学力問題というのが2000年前後に起こった。分数のできない大学生など、理数系の学力低下批判が行われた。この批判をはじめたのが経済学者だという。(pp.192)私は不勉強で初耳であったが、補助線である経済・欲望というキーワードが強く光りだした。

 教育者は経済を学ばなければいけない。経済界の理屈は非常に強い。私たちは結局、働く人になるからだ。すべてが経済に還元されてしまう。しかし、フィンランド・モデルを手本とするならば、経済の論理と戦えるだけの経済の知識が必要になると思う。もっとも、私は経済に明るくない。私が持ち合わせる武器は熱力学第二法則くらいだ。地球温暖化も手伝って、なんとか戦えるモノになっているのではないだろうかと思う。フィンランドを見習うのは実際の政策ではなく、経済を丸め込んだ論理である。

 競争することで自力をつけるということに全く反対ではない。確かに効果はある。しかし、相手がいなくなったとき何を支えにすればよいのか?学校では教えることができるのだろうか?他者は教えることができるのか?新たな敵を見つけるか?社会に出れば、否応なしに競争に参加させられる。同じ青天井であれば、無知の知に価値をおきたい。イギリスにはこんなことばがある。

茂木健一郎 クオリア日記: 堀江社長にとって「世界は誰のものか」

オックスフォード大学を出た人間は、世界が自分のものだと考える。ケンブリッジ大学を出た人間は、世界が誰のものでもかまわないと考える。

 イギリスは多様性を認めていた。このことばは簡単にそのことを説明している。似たようなことばが本書にもちりばめられている。

 偶然にも昨日(1月31日)のクローズアップ現代はEUの教育だった。

クローズアップ現代 NHK

 Blair前首相の「Education, education, education」が象徴的に放送されていた。本書にも出てくる。

see also
平等社会フィンランドが育む未来型学力

Saturday, January 12, 2008

苅谷剛彦 / 西研 『考えあう技術』

 教育を哲学する。本書はディープだ。

Amazon.co.jp: 考えあう技術 (ちくま新書)

 教育を哲学するというと、ロックとかコメニウスとかマンとかフレーベルとかデューイとかを浮かぶ人もいるだろう。本棚に置いていない教科書を引きずり出し、目次に書かれている人名の一部をあげてみた。これらの思想家を知らないと本書を理解できないということはない。もちろん、名前くらいはでてくる。でも、名前がでてくるくらいだ。

 本書のタイトルは『考えあう技術』である。このタイトルだけだと自己啓発の本と思われてもしかたない。苅谷剛彦氏と西研氏の対談を通じて、本書のキーワードでもある「追体験」ができる。目次には「練習問題」と題したページもある。実際に自己啓発の本だ。苅谷氏の著書は一貫して「考える」である。苅谷氏の場合、考えるための材料が「教育」なのだ。

 さて本書の「あとがき」にあるように内容の抽象度は高い。

私自身にとって今回の対話では、学校の現状や今進む教育改革の具体的な問題点の議論は、意識的に遠ざけた。哲学的な思考に寄り添うことで、一度抽象度を上げた議論を詰めたほうが、教育の意義や学ぶ意味を再構築するうえで有効だと考えたからである。(pp.269)

 抽象度が高いことをメタレベルが高いというらしい。私は「メタ」ということばを普段使わないので、この理解で正しいのか判断できない。まぁ、よしとしよう。

 本書がどれくらい抽象度が高いかというと、民主主義から話がはじまる。民主主義から、それを支える市民。その市民に民主主義から与えられる自由。その自由をささえるルール。自由と対立する徳目主義。自由と個人。などなど、この考えは言及されれば「当然のこと」と思うのだが、私はトンと忘れてしまっていた。多くの人は忘れてしまっているのではないだろうか。暗黙の共有部分のはずだ。この大前提が悩ましい部分だといっているが、それを解決できるであろう手法がキーワードの「追体験」だ。これは授業でやってみたい。

 本書を読んで、イギリスでの市民教育が新聞で特集されたのを思い出した。
イングランド報告(2) 「市民育成」高評価生む : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
イングランド報告(9) 「市民とは」教え方手探り : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 この手はまだロールモデルがありそうだ。

Friday, January 04, 2008

内田樹 『先生はえらい』

 本書は教育書か?素直に感じた思いである。先生の専門性をデータで擁護しているような「ありきたりな」教育書ではない。もし、教育書と思っていて躊躇しているならば、さっそく読んでほしい。

Amazon.co.jp: 先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 私は『先生はえらい』というタイトルで尻込みしていた。上に述べたようなデータ、データ、またデータで先生を擁護しているようなモノであれば、それは私にとってはつまらないモノだからだ。よくよく考えれば「ちくまプリマー新書」である。そんなはずはない。ましてや、内田樹である。ますます、そんなはずはない。

 タイトルの「えらい」がひらがなだ。読み終わってから気がついた。なぜ漢字の「偉い」ではないのか?中高生向けだからか?だったらバカにしすぎである。意図があるのだろうと勘ぐる。

 稚拙な文章ではあるが、私も文章を書く。そのときに注目をさせたいことばには目印をつける。漢字ではなくひらがなやカタカナで書いたり、括弧でくくったりする。ならば「えらい」は注目させたいことばだ。そこらへんは本書にちゃんと書いてある。

 本書は自分をすっかり変えてしまう力を持っている、恐ろしい本である。恐ろしいというと語弊があるかもしれないが、自分がすっかり変わってしまうのである。毒にも薬にもなりうる。恐ろしいも含意だろう。しかし、当事者(中高生)には本当に恐ろしいモノとなるかもしれない。当事者は注意して読むように。

see also
内田樹の研究室: 『先生はえらい』!

Saturday, December 15, 2007

苅谷剛彦 『学校って何だろう―教育の社会学入門』

 中学生のための社会学入門書。考える力を鍛える材料がこんなにも身近にある。

Amazon.co.jp: 学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫): 本: 苅谷 剛彦

 本書は中学校が舞台である。なぜ、中学校か?それは、小学校と全く違う教育的価値観が導入されているからである。近年はシンボライズされ、中1ギャップということばがある。

Yahoo!辞書 - 中1ギャップ

 リンク先を見ると新潟県教育委員会が名付け親らしい。私は中1ギャップについて、リンク先以下のことしか知らない。このような教育問題・社会問題があるのにもかかわらず、傍目には、くだらなく、過度に厳しい校則がなぜまかり通るのか?

 本書はそのような疑問に対して答えを示してくれるものではない。むしろ、「もっと悩め」と煽っている。もっともっと考えて、もやもやを自分なりに解消することを勧めている。複眼的思考法を鍛えるためのよい訓練となるだろう。

 中学生が本書を読むことは、よい活性作用があると考えられる。しかし、それを受け止める親や教師が真剣に向き合わなかったり、詭弁で逃れようとした場合に、子どもたちが感じるであろう不安感を増大する副作用となりかねない、と考えるとチト怖い。

Monday, October 29, 2007

学校とテスト

 本書を読み、「うんうん」と思うか、「そんな無責任な」と思うか。

Amazon.co.jp: 学校とテスト (朝日選書 (90))

 著者の森毅氏は現在、京大の名誉教授らしい。一時期、テレビにもよく出演していたので知っている人もおおかろう。のほほんとしていて、同じ数学者でも藤原正彦氏や秋山仁氏などとは正反対というのが、私の印象だ。

 本書は1977年発行、30年前になる。それでも論じられていることは現在にも通用することである。学力論争、大学入試、教科書問題、指導要領、科学教育、学校と塾、評価、などなど、過去の問題は今の問題でもある。そして、「あなたの言っていること、分かりますよ」という感想なので、問題点も同じなのだろう。まぁ、30年で、何度か問題点が入れ替わったのかもしれないが、現在は30年前と変わらない。

Tuesday, September 18, 2007

平等社会フィンランドが育む未来型学力

 フィンランドセンター所長によるフィンランド教育レポート。

Amazon.co.jp: 平等社会フィンランドが育む未来型学力

 一時期、さんざん騒がれたが、最近トンと聞かなくなった。日本「的」な一過性ブームの一端をここでも垣間見た。

 本書は、OECDで行われているPISAで好成績を示した、フィンランドにおける「教育とはなにか」というのを記したモノである。教育史、教育改革のポイントなど参考になる箇所がありそうだと手にした。

 本書を読んで、フィンランドでは「教育でできること・できないこと」を見極めていると感じた。フィンランドにもいじめや不登校の問題があるはずだが、そのことに関しては記されていない。進路指導や部活動についても書かれていない。不登校に関しては少し書いてあるのだが、それも教育制度でなんとかしている。この大胆さが羨ましい。

 さて、「教育でできること」は「教育制度の制定」と「教員養成」だと受取れる。

 「学校制度の制定」は日本でいう文科省と同様、国が行う。しかし、日本と比べると縛りは厳しい。

一般的な国家目標と科目別、分野別の授業時間数および生徒指導時間数の割り当てについては、フィンランド政府が決定します。国家教育委員会は、教育課程基準を承認し、各教育の目標と内容を設定します。これをもとに、地方自治体などの学校設置者が地方カリキュラムを編成します。(pp.117)


 同じではないかと思うかもしれないが、フィンランドには日本のような内申評価というものがないのかもしれいない。

義務教育は、授業への出席を強制するものではないので、授業出席に相当する知識と技能を通学以外の方法(おもに仮定での学習。国家教育委員会が教える人の能力を監督している)で習得してもかまいません。(pp.116)


 日本とは違い、宗教や倫理が義務教育課程で必修科目とされているし、プレスクールが充実しているのであまり問題がないのかもしれない。

 教員養成に関しては非常に力を入れている印象を受ける。まず、教員には修士課程を要求している。日本でも教員を経験し、各教育委員会から許可をもらえれば大学院で学ぶことができるが、ほとんどは教育委員会や付属へ行ってしまうので、根本的に修士号を取得する意味が違うのではないかというのが、私の意見。

 教育実習も2段階になっており、評価も可か不可というすっきりしたもの。しかし、不可を出す前に、話し合いを持ち、追実習というので教員養成体系がしっかりしている。日本の場合、教育実習で不可であったら、確かアウトだったと思う(受入校を変えれば再実習OKだったか?)。切捨てではなく、育てるという姿勢が、教育界全般に漂っている。

 日本では「教えること」から「学ぶこと」、そしてまた、「教えること」へ教育姿勢が変化しようとしている。「教えること」を放棄するのはありえないことだが、「教わること」の必要性を理解するには「学ぶこと」で壁にぶつかる必要がある。

 「学ぶこと」には自主的・積極的に学習したいという視点があると思う。自主的に学ぶことに限界があると感じることで「教わること」の必要性を理解できるのではないか。日本でも「学生時代にもっと、勉強しておけばよかったなぁ」などというセリフを聞くことができる。不思議とこのフィードバックが学校教育にはないように、私の目には映る。

 かつては日本も海外からの視察の対応に忙しかった。それは、その当時の社会背景にマッチした教育成果を得られていたからである。今は、フィンランドの教育が社会背景にマッチした教育成果を得ることができている。ただそれだけの違いである。

Sunday, September 09, 2007

偏差値は子どもを救う

 ブログ(『森口朗公式ブログ』 http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/)で氏のことを知った。調べてみたら著書が多くあったので読んでみた。

Amazon.co.jp: 偏差値は子どもを救う

 1999年とチト古い本であるが、「教育問題」は「評価」とリンクしているというスタンスは、私のスタンスとも同列である。評価というと忌々しい感じがするが、どのような基準で採点されているのか知る必要がある。こんなのはほとんどが勘違いが広まったせいである。

 本書に愛知県が健闘しているという記述がある。そういえば、犬山市も愛知県だったなぁ。なぜ愛知県の公教育が健闘しているのか、本書では「管理教育」だからとしてある。これは興味深い。

Wednesday, August 15, 2007

だから、僕は学校へ行く!

「そういえば、乙武くんが教員免許とっているんだって」
「ん?それどんなイベント?」
 小学校の教諭をしている友人からの一言。

Amazon.co.jp: だから、僕は学校へ行く!

 私は乙武氏が教育界に踏み込んでくれたことに喜んだ。友人もゲストティーチャーとしてなら大歓迎だと言っていた。しかし、自分たちと同じ仕事をすることができるのかどうか、という点で疑問を持っていた。

 私は、現状の小学校の現場は皆目検討もつかない。しかし、友人のことばからは、かなりの困難があるだろうというのは容易に予測できる。もちろん、当の本人がそのことをよく理解しているということは本書を読めば分かる。

 私は本書をエッセイとして読んだ。なかには教育問題といわれるものに対して、氏なりに調べ解釈述べているものもあり、参考になることもある。そのなかで、特に響いた部分がある。pp.118にある「北の大地に見つけた『僕の過去』」という部分だ。

 この部分は教育とはあまり関係がない、と私は思っている。どちらかというと、大人としての心得というものだろうか。形は違えど、学校現場ではないにしろ、はっと気がつくことがある。それが、「北の大地に見つけた『僕の過去』」には端的に表現されている。

Tuesday, August 07, 2007

「学ぶ」から「使う」外国語へ―慶応義塾藤沢キャンパスの実践

 本書は『日本人はなぜ英語ができないか』(鈴木孝夫著、岩波新書、1999年)で関口一郎氏という名前を知り手にした。

Amazon.co.jp: 「学ぶ」から「使う」外国語へ―慶応義塾藤沢キャンパスの実践 (集英社新書)

 読後、本書をGoogleで検索してみた。いくつか書評があったが、否定的なものが多かった。はたしてほんとうにそうだろうか?

 本書の勉強方法、そのものは決して目新しいものではないだろう。それは、本書が発行された2000年当時であろうとも同じだろうと考える。しかし、本題はそこではない。大学の外国語課程で、SFCのような試みが行われていることに、まず、驚かなくてはいけない。

 私は大学へ行けば、中学や高校のような英語の授業を受けずに済むと思っていた。しかし、それは幻想であった。好きな授業を選べると思っていたが、はじめから受ける授業が決まっており、先生も決まっている。なんだこれはと強く憤慨した。しかもそれは、週2コマ、2年間が義務付けられている。苦痛以外の何物でもない。ささやかな抵抗として、英語母語話者の先生の授業を英語IIIで受講した。成績云々ではなかった。

「自分の専門はシェークスピアである。この分野についてのみ自分は自身を持って教えることができる。それが学者の良心ではないのか」
 と叱られた。……だが、教える相手は別にその先生を選択したわけではなく、ただ、英語を勉強したいと願っているだけの学生たちなのである。(pp.216)


 私が不満に感じたものそのものである。

 最近では、特色GPとして英語のみに焦点を当てて外国語教育を工夫している大学は多い。本書によるとSFCでは、英語、仏語、独語、西語、中国語、朝鮮語、インドネシア語の7ヶ国語である。力の入れようが根本的に違う。英語のみだと変に窮屈になってしまうような気がする。ニコニコした脅迫のようだ。

 戦後日本の新制大学の外国語教育のゆがみのひとつは、高度な外国語教育は文学部か外国語学部でしか受けられない、というところになる。…(省略)…外国語に関心がある多くの若者は、将来国際的な環境で活躍したいと思い、そのために必要な専門の学問と外国語能力を身につけたいと願っている。欧米ではむしろそのほうが一般的である。(pp.128-129)


 私は不勉強で本書にあるような主専攻、副専攻というシステムが日本の大学にあるのかどうかは知らない。それどころか、この言葉をつい最近知った。とてもよい制度だとうなだれたのを覚えている。

 経済界ではこのような人物が欲しいのであろう。そのために、小学校からの英語教育やコミュニケーション重視の英語教育を強く推し進めているものと考えている。大学が変われば、小学校から英語などという声はなくなるのかもしれない。

Friday, August 03, 2007

養老孟司の“逆さメガネ”

 読後の妙なすっきり感が、不思議といえば、ふしぎだ。

Amazon.co.jp: 養老孟司の“逆さメガネ”

 なぜ不思議か?それは、まったくもって答えがでていないからだ。何の答えか?これは「教育」についての本である。なので、教育問題についての答えということになる。

 7月24日のNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』で次のような発言があった。

問題が分かれば、ほとんど解決している。あとは色々と試すだけ。


 前後の文脈は失念してしまったが、この言葉はなぜか耳に残っていた。きっと共感したのだろうと思う。そして、本書を読み、「あれ、おかしいなぁ」と……

 そもそも問題になるくらいだから、答え、教育の理想というモノがあるはずだ。でなければ問題なんぞあるはずない。理想からずれるから問題じゃないか。

 教育の理想ってなんだろう?私たちは教育で子供をどうしたいのだろうか?

 本書は、このような「ものさし」を提供してくれる。それを養老氏は「逆さメガネ」という言葉を使って表現しているが、学者らしい。科学の根っこだ。今ある教育問題、学力低下や理数離れ、英語教育、いじめ、生きる力、文章読解力などなど色々ある。ピンポイントで考えていてもなかなか答えがでそうにない。アインシュタインのように「光とはこういうものだ」と、掟破りの発想をしなければならないこともあろう。

Tuesday, July 31, 2007

格差時代を生きぬく教育

 タイトルに偽りあり。本書は寺脇研氏の思いをはいた本である。私がタイトルをつけるならば、「寺脇研 教育を語る」程度のものだ。

Amazon.co.jp: 格差時代を生きぬく教育

 「寺脇研って、誰?」というところから考えなければならない。寺脇研は元文科省の役人である。文科省のスポークスマン的存在としてメディアに露出していたので、知っている人は多いようだ。私が氏のことを知ったのは、「朝まで生テレビ」であった。テーマが何だったかは忘れてしまったが、「言うことはトンデモではない」という記憶だけがある。

 本書の内容もそれほど突拍子もないことを語っているようには受取れぬ。まっとうなことを述べている。

 第1章でゆとり教育について述べられているのだが、主要教科だけでは一生をまっとうできない、生涯学習の時代に入ったという認識から、生涯学習に必要な資質として「大人との交わり」や「美的感覚」が重要になると導いた。それが基本スタンスだと述べられている。

 「美的感覚」とは、私が本書から受取った感覚語なので、本書にはない言葉だ。本書では「マインド」という言葉がこれにあたる。これは問題設定能力と、本書からは解釈できるが、今で言う「生きる力」と同義語だ。これを育成するのに格差があってはならんというのが、ゆとり教育のコア。なぜ大反対されたのか、よく分からん。なぜ現場にうまく伝わらなかったのか、文科省の責任は思いと感じる。

 本書では寺脇氏個人の思いとは別に、役人として、公務員としてどうあるべきかという話しが、第2章にある。これが非常にむずかしいと感じる。役人としては全体を俯瞰の目で見なければいけない。しかし、本書では、「森を構成する木にも注意していますよ」というようなアピールがあるが、その範囲がえらい狭く感じた。が、これは他に書くことがないための揚げ足取りレベルだ。

 結局、この本は何が言いたいのか、私にはよく分からない。収穫があったのは「官僚的思考」の一端が見えたことか。寺脇研氏を知っており、ある種のラベル付けをしている人が本書を読むと、反対のベクトルに振り子が振られ、私のように混沌とするかもしれない。「まったくすっきりしない『踊る大走査線』の教育版」というのが、私の感想。

Saturday, July 28, 2007

危うし!小学校英語

 驚くほど分かり易く書かれているが、小学校英語教育に賛成の保護者に読んでもらえるのだろうか?

Amazon.co.jp: 危うし!小学校英語 (文春新書)

 なぜ保護者なのかというと、本書でも指摘があるように、この問題に対する世論の声の大部分は保護者であろう。それが文科省を動かしているという指摘が本書にある。疑問に思うのだが、文科省は保護者の声だけでここまで強固な姿勢を貫くのか?もうひとつ疑問に思うことは、保護者は小学校英語教育を帰国子女のような状態にすることと勘違いしているのではなかろうか?

 はじめの疑問に対しては、昨日、興味深い記事があった。

asahi.com:「入社時から給与に格差を」経団連会長、フォーラムで - ビジネス

 学校教育のゴールはおそらく社会人になることだ。そこからの要求は飲まねばならないだろう。

 次の疑問に対しては、「外国語は、早ければ早いほど効果がある」というのが動機になっていると考えると、全くの見当違いとはいえない。「帰国子女のような状態」ってなんだろうと考えると、「楽してモノにさせたい」ということだろうか。しかし、日本語でも「最近の若者の日本語はなっちゃいない」などというのがあるように、母語であろうとも楽というのはないだろう。

 本書では、「小学校英語」って一体なに?いま小学校で行われている英語と、必修化しようとしている英語教育ってどう違うの?小学校では誰が教えるの?そもそも日本における「英語教育」ってなに?そして、どうして反対なの?ということが、とくとくと述べられている。個人的には「第三章 誰が英語を教えるのか」と「第四章 日本の英語教育はどうあるべきか」は是非とも読んでもらいたい。

発音が日本人的だと、「この人は英語が母語ではなく、外国人として英語をしゃべっていますよ」という、ひとつの警告になる。(pp.192)


 私もこの言葉はよく使う。日本語を話す外国人と接する機会がある人は分かるのではないだろうか?

see also
文藝春秋|本の話より|自著を語る 欠陥だらけの小学校英語に唖然

Friday, June 29, 2007

14歳の子を持つ親たちへ

 内田樹氏と名越康文氏の対談本である。おふたりとも「ことば」にすることに長けているの勉強になる。

Amazon.co.jp: 14歳の子を持つ親たちへ

 まずタイトルなのだが、いまいちピンとこない。座りが悪いというか、手が伸びにくいというか。「14歳」というラベルは、教育本の類では常套手段のように使われるキーワードなのだが、それゆえに、陳腐に感じてしまう。なぜこんなありきたりなタイトルなのだろうと、もったいないように思えた。しかし、どんなタイトルがいいかというと、これまた閉口してしまう。本書を読むとこのタイトルへ集約していくのだ。私が持っていた「14歳」というラベル付けの意味が変わった。

 目次から気になった部分を抜き出す。

 「第2章 病気なのは親の方?」は、全体を通して興味深い。「ディベートは最悪の教育法」などは「ぬぅっ!?」となってしまった。「『期待しない』ことの大切さ」は禿同である。対子どものこの本における核だと思う。

 「第3章 二極化する文化資本」の「『オバサンの真実』、明かします!」にある「名越理論(pp.88)」は怖い(笑)。

 「第5章 教養とは『何を知らないか』を知ること」の「集団が同質化している」は体感として理解できる。しかし、体感ができるが故に、ふたりの対話を読むと怖くなってしまう。正直なところ、同質化することが子どものためと思っているふしが私にはある。しかし、ふたりの反応は全くの逆であった。orzだったが、読むと納得してしまう。もう少し考えなければいけないと思った。

 「第6章 義務教育は十三歳までに?」は思わず唸った。私が知る限りではあるのだが、シュタイナー教育にはこの考えがある。シュタイナー教育の場合は年齢で考えていない(私の記憶では……)が、根本的な考えは一緒だろう。付け加えておくが、私はシュタイナー教育を勉強したことはない。以前、読んだ本でこの部分が強烈に記憶に残っているだけである。まぁ、年齢で考えるほうが、事務的には便利であるから、なくなることはないだろうと思う。

 こころと体の相違による違和感は多くの人が感じたことがあると思うが、だからこそ、大人は「子どもが分からない」ということを恐怖と感じるのだろうと思う。この時期の人間は見た目が子どもであるが、子どもにラベル付けされる意味を逸脱した属性を持つので厄介だと、私はこの本から、そう受取った。

 本書を読んでいると「なるほど、そうか」と思うことが多い。しかし、それとは逆に「まぁ、いいか」と思えることも必要なのかなぁと思う。