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Monday, February 18, 2008

橋本治 『ハシモト式古典入門―これで古典がよくわかる』

 目からウロコが落ちる1冊だ。文庫版がちくま文庫から出版されているようだが、私が読んだのはごま書房の単行本版である。

Amazon.co.jp: ハシモト式古典入門―これで古典がよくわかる (ゴマブックス)

 なぜ古典を勉強するのか?学生時代の最大のなぞであった。なぞであったのだが、真剣に考えたことはない。当然、勉強もしない。全くしない。人生で、古典に触れた時間は学校の授業のみである。勉強していないので、参考書を読んだこともない。はじめての古典に関する本である。

 なぜ本書を手にしたのか?それは、ことばについて書かれていたからだ。日本語の歴史が本書の半分を占めている。これは本書にもきちんと書かれている。

実は私は、この本で「受験生用のわかりやすい文学史」を書きたかったんです。(pp.222)

 私は日本語の歴史に興味がある。なぜ興味があるのかは、私の経験による。

 上に述べたように、私は古典の勉強を華麗にスルーしてきた。そんな私に大学時代の友人が言った。「漢文って、中国語だろう」と。血の気が引いたのを覚えている。古典を軽視してきたことを悔やむと同時に、強い満足感があった。「あぁ、そうだったのか……」と。のちに、中国人の同僚と話をしたときも同じような満足感があった。彼は高校のときに日本へ来た。公立校で学んでいたという。その彼がいう。「日本語は簡単。国語は漢字を追っていれば意味はわかる。漢文は中国語でしょう。ひらがなはすごい。数学はまた別の言語だし、問題は漢字を見れば理解できる。英語は日本人と変わらないね」と。思い出しながら書いているが、「ひらがなはすごい」のところに無意識がひっかかっていたのだろう。後日、『その時、歴史は動いた』の「ひらがな改革」の回を楽しみながら見ていた。

 いちおう、古典に関する「ひっかかり」は持っていた。そんな私が偶然、本書を手にした。「橋本治」という名前はもちろん知っていた。しかし、認知したのはごく最近である。それまでの間、『こち亀』の作者だと思っていた愚か者である。パラパラめくってみるとこんな目次が並んでいる。

  • 外国語で日本語をやるしかなかった奈良時代
  • 「ひらがな」と「カタカナ」
  • 「ひらがな」の持つ意味
  • 「漢字+カタカナ」の書き下し文は、現代日本語のルーツである

「うわ、すごい本みつけた」と思ったのと同時に、「なんで今更……orz」という思いもあった。複雑だったが、好奇心が勝った。読んでよかった。

 古典とは全く関係ないが、本書を読み感じたことのひとつに「古典が出来た人は、外国語もできるようになるのではないか?」がある。なぜか?現在では使われていない文法ルールがある。その理解は外国語に通ずると思う。それに、単語が分かればある程度は文を理解できたり、読めるんだけれども意味が分からないなどの共通点もある。残念なことに学校教育では、みごとに国語と歴史に分断されている。

see also
ひらがな改革

Wednesday, January 23, 2008

田嶋幸三 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』

 エントリを立ち上げるかどうか迷ったが、重要な示唆があるので書く。

Amazon.co.jp: 「言語技術」が日本のサッカーを変える (光文社新書)

 本書は、日本サッカー協会専務理事の田嶋幸三氏によるサッカー論である。なぜ言語技術がサッカーを変えるのかは本書に書かれている。私はサッカー経験者ではないので技術的なことは分からない。私が注目したのは、本書に書かれている文科省の対応だ。

 コトの運びはこうだ。田嶋氏がドイツに留学していたとき、ドイツの子どもたちが「バカ蹴り」をしないことに驚いたという。「バカ蹴り」とは、とりあえず大きくクリアしとけというもので「目的のないキック」のこと。素人が試合をするときによく見られる光景だ。サッカーの試合でボールに触れるのは多くて100回程度、そのほとんどが「バカ蹴り」だったら無駄な練習ということになる。そこで、田嶋氏はドイツ留学の経験から言語教育を幼いうちから学ばせる必要性を感じた。

 そこで、帰国して、言語学習を実現するために文科省の役人を訪ねました。ところが、返事は「やめたほうがいいよ」というものでした。
「公立学校でそういう言語教育を実現しようとするなら、およそ20年はかかるだろう」「もし本気で実現したいと考えるなら、私立の教育機関として取り組んだほうがいいですよ」という忠告までいただきました。(pp.110)

 田嶋氏がいつ文科省を訪ねたのか明記がないが、プロフィールを見るとドイツからの帰国は86年である。仮に86年に文科省を訪れたとしても、2006年には本書に書かれているような言語教育が実現できた。書かれている言語教育とは、先日書いた三森ゆりか氏のモノである。三森氏は日本サッカー協会のエリートプログラムに参加している。

 実際、文科省の20年かかるという発言はウソではない。エリートプログラムも生徒募集は2005年からである。しかも、1校のみでた。これで考えると、全義務教育過程の学校で行うよう指導するとなると20年でも怪しい。しかし、エリートプログラムを行っているのはJFAアカデミー福島である。日本サッカー協会は、一から学校を作り上げた。ここは全寮制の学校である。私はイギリスのパブリックスクールを思い浮かべるが、あながち間違いではないだろう。ただし、学校と書いたが子どもたちは地元の中学・高校へ通う。行政とのやりとりもかなりの時間がかかったのではないかと推測する。

 田嶋氏は日本サッカーを強くしたいと思い、言語教育を文科省に提言した。これがいけなかった。もっと、文科省にも得となるはなしをこしらえてから持っていけば、文科省の態度も変わったかもしれない。時代もあるだろう。時はバブル経済ど真ん中だった。

 昨今PISAの成績が世間を賑わせている。文科省は本腰をいれて言語技術を義務教育に導入させようとしている。

Saturday, March 31, 2007

カリスマ受験講師の「考える力」をつける本

 国語や現代文を勉強するモチベーションを与える本だ。

Amazon.co.jp: カリスマ受験講師の「考える力」をつける本―記憶力・読解力から論理力まで、最大の効果を生む勉強法!

 これを読むと、国語や現代文を学ぶ姿勢が変わるだろう。私も学生時分に読んでいれば、変わっていたかもしれない。学生は、国語や現代文を学ぶ意味を色々と考える。短編や小説を授業で読んで、作者が何を思っているのかなど、どうでもいいことだと信じている。少なくとも私はそうだった。

 テストでは、課題文をろくに読まずに解答していた。それでも、意外に点数がとれてしまうことが不思議だ。が、なんとなく理屈はわかっていた。この本では、その「なんとなくわかった理屈」がづらづらと書かれている。正直な話、私は国語の授業で国語の勉強をしていたことがない。体力補給の睡眠、もしくは数学か英語の内職に当てていた。そして、当時の私はマンガも読まない、活字嫌いだった。そんな私が偶然にも体得していた「理屈」がどこから来たのか考えた。おそらく数学だ。

 私の数学は山あり谷ありだ。その谷の部分で気が付いたのだと結論付けた。その谷の部分とは証明問題だ。「この三角形が相似である理由を述べよ」とかいうヤツだ。私の数学暗黒時代だったのだが、その時に四苦八苦したのがよかったのではないかと思う。

 過去を振り返っても仕方がないが、その時、横断的・串刺し的な思考に気が付けば、もしくは、誰かがそんなヒントを与えてくれればと思い返してしまった。本当にデキル人ってのは、自分でそれに気が付くのだろう、きっと……

Monday, March 19, 2007

工学部でも国語が必須

 非常に興味深い。工学部でも国語が必須入試科目となるようだ。

09年度入試から京大が工学部を国語必須に / 教育ニュース - 教育情報サイト eduon!

 工学部の国語必須化だけでなく、経済学部の数学系の問題を必須とすることにした。経済学部は数学必須である。なぜ、数学が入試問題で必須でないのか不思議。他大学はどうなのか、調べていないのでわからないが、社会系との選択科目だったのかしら。

 受験生には負担増だと思う。なので、英語は入試科目から除外してもいいのではないでしょうか?

西本清一副学長・工学研究科長はこの決定に関して理系の総合力の必要性に国語の力が不可欠・分離融合で心材を育成すると発表し、関西の主要な大学で2次試験に国語を課している初の例となる。
経済学部では論理的表現力をみる論文入試のほかに数学的な思考をみる理系型入試を設けた。

 改革の理由が上記のようなので、英語はまったく必要ないのではないでしょうか。むしろ、英語の勉強に時間をとられてしまうので、足枷になっているという意識はあるはずだ。如何でしょうか、京大さん?

Friday, February 16, 2007

三色ボールペンで読む日本語

 「三色ボールペンで読む日本語」というタイトルは間違いだと思う。斎藤氏の本ならば、これは「要約力」だ。

Amazon.co.jp: 三色ボールペンで読む日本語

 まずこの本を手にし直感的に思ったことは、マインドマップの作成手順に近いということだ。「赤 → 青」の順に枝葉が伸びる感覚だ。私はそう思ったので買わなかった。しかし、実際にやってみるとうまくいかない。なにがうまくいかなかったのかというと、「赤」が適切に引けない。

 それから購入して本書にある練習問題をやってみた。練習問題には斎藤氏の添削がつくからだ。それで分かったのは、「赤にすべきところに青を引いている」ということだった。もちろん、青は赤を包括するので間違いではないのだが、斎藤氏曰く、覚悟が足りないということらしい。もっと大胆にいかないかんなぁ。

 この方法の一番よいところは、色分けをルール化して提供していることだろう。情報の色分けは誰もが行っていることだと思う。しかし、なかなか定着してないのではないだろうか?これは個人の経験だが、カラフルになりすぎて「どの色が何を示しているのか」分からなくなってしまったことがあるし、「あっちの赤」と「こっちの赤」が違う定義になっていることもあった。

 この方法は目新しいものではない。本を読んだら何かしらの「足あと」を、誰もが残していると思う。私の場合はポストイットだった。やっぱり、本に「筆を入れる」ことに強い抵抗を感じていた。教科書や参考書の類は別であるが、書籍にはできなかった。しかし、ボールペンで線を引くと「クセ」になる。よく分からない感覚なのだが、なんかイイ。

Thursday, December 14, 2006

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因

 「わかったつもり」は、ひとつの「わかった」状態で安定状態だ。そんな言葉が本書中に何度も繰り返し出てくる。それくらい、読みに対して厄介な状態ということ。本書は、読みに対するひとつの姿勢を示してくれる。

Amazon.co.jp: わかったつもり 読解力がつかない本当の原因

 結構、読まれている本だということがGoogleの検索結果やAmazonのレビューからも分かる。それ故に、様々なレビューがあるが、私は「良書」だと思う。特に第5章の「2. 解釈の自由と制約」、「3. 試験問題を解いてみる」は良かった。まとめのページから引用。

  1. 整合的である限りにおいて、複数の想像・仮定、すなわち「解釈」を認めることになります。間違っていない限り、また間違いが露になるまで、その解釈は保持されてよいのです。
  2. ある解釈が、整合性を示しているからといって、それが唯一正しい解釈と考えることはできないのです。
  3. しかし、ある解釈がどこかの記述と不整合である場合には、その解釈は破棄されなければならないのです。

 これは、「なるほど、そういうことか」と妙に腑に落ちた。本書にもあるが、国語の試験問題で、適切なモノを選ぶより、適切でないモノを選ぶ設問の方が自信を持ってスムーズに解答できたことを思い出した。それが、上記の「整合性」に関わる記述とピッタリだ。

 これを見ると、日本の国語教育でも「論理的な考え方」が行われていたのだなぁと実感する。ただ、それを「教える側」も「教わる側」も深く考えず、なんとなくやり過ごしてしまったのだと思う。そういう私も、なんとなくやり過ごしてしまったひとりなのだが……

 読み易い本ではあるが、扱っている問題ゆえに、書かれていることが冗長になってしまっていると感じる。しかし、そのために読むのを放棄してしまうのはもったいないと思う。

Tuesday, November 28, 2006

わが子に教える作文教室

 とても面白く、私の興味を惹く内容だ。そして、内容も激しく同意できるものであり、且つ考えさせられるものでもあった。

Amazon.co.jp: わが子に教える作文教室

 まずは書かせることが第一というスタンスは当然として、長い目で成長を見るということは教育の本願である。しかし、学校なのではコレがおろそかになりがちのような気がしてならない。矛盾を抱いていた私には、とても心に響く内容だった。

 ここに書かれているスタンス、子どもに対するスタンス、これがゆとり教育の目的だったはずだが、どこでどう歪曲されたのか……

Sunday, August 06, 2006

論理的思考と日本的情緒 | 「教えない」英語教育を読んで

 週末を利用して市川力氏の「教えない」英語教育を読んだ。非常に面白かったが何点か腑に落ちないこともあった。

Amazon.co.jp: 「教えない」英語教育

 まず「教えない」という言葉に非常に惹かれた。私も学ぶことに必要なことはモチベーションだと思うし、それ以外ないとも思っている。英語「を」から英語「で」という言葉は非常に分かり易い言葉である。そして、「子ども英語」と「大人英語」という分け方も目新しかった。「子ども英語」は興味喚起を総括した言葉で、「大人英語」は論理的に英語を理解する、旧来の英語教育の内容を意味している。

 全てにおいて理にかなっているし、うなずけることばかりが並んでいたので非常に有益な書物だと思ったが、もうひとつレベルを上げて考えてみると日本的情緒を捨ててしまうのかという、非常に厄介な問題もあるように思う。

 市川氏は小学校英語教育に反対している有識者のひとりだ。小学校では母語で論理的に考えられるようにすることがもっとも優先順位が高いことで、外国語(英語)は興味喚起の手段の一つに過ぎないと、極端な解釈をすればそうなる。

 論理的に考えることは、母語を修得するのとは条件が違いすぎる外国語修得に際しては必要なスキルであり、外国語を運用するために、要は英語を使う場面で相手の話を聞き、理解し、返答する際のスキルでもあり、外国語に携わる際に気っても切り離せないスキルになる、そういった理由で、母語での論理的思考能力を鍛える必要があるという結論になると思う。小学校英語教育反対を掲げる有識者の書物のほとんどはこの流れで書かれていることにも、外国語を修得し、運用するには母語での論理的思考が不可欠と一つの答えを出したのだ。

 最近、フィンランドメソッドなど海外の論理的思考を鍛えるメソッドが注目を浴びている。徹底的に論理思考を鍛えるプログラムであるが、先の国語教育でも日本的情緒を叩き込むことを目標としていたのに、まぁ、キツク言えば失敗しているのに、日本の文化にあまり根付いていない論理的思考と情緒をパラレルで育むことができるのかと思うと厳しいのではないかと思う。

 私が考える日本的情緒というのは、簡単にまとめると「行間を読む」ということだ。俳句なんかがいい例だと思う。絵本などもそうかなぁ。行間を読むということを小学校の低学年から、高校まで旧来の国語教育では行ってきた。しかし、行間を読むということは一様に同じものをアウトプットできるかというと、そうではなかった。よく言われていることは、作者と意図しないことが正解とされ、作者が文句を言ったなどということがよくあるが、行間を読むことにはそれ相応の経験と体験が必要であり、同じ経験をしたとしてもアウトプットが違うことは人として当たり前のことで、それが積もり積もって日本的情緒となったのではないかと思っている。要は行間を読むことは、日本人なら誰でも出来ることではあるが、同じものが出てくるとは限らない、不確実なものなのだ。行間を読むこと自体が日本人らしさの象徴であるので、アウトプットの質は問わないのが本質ではないかと思う。行間を読んで出てきたものに正解も不正解もないということだ。

 行間を読むことの元となるスキルはなんであるか?私は「察する」ことだと思う。これは外国人には、特に論理的思考を体得するための教育を受けてきた人たちにはしんどいらしい。「察する」ことのひとつに共感があるが、外国人はこれが得意である。男女問わずにかなりの確率で正しく共感してくれる。しかし、それには言葉が必要だ。もちろん、ボディーランゲージというものもある。しかし、日本人の「察する」はちょっと違うように感じている。私自身、感じているだけなので、「これがこういうわけで……」と言えないのが歯がゆい。というか、私自身あまり明確に理解していないのかもしれない。ひとつ例を上げるならば、「美辞麗句」だろう。最近は悪しきモノとしてとりあげられることが多い。それは、断定的な判断が必要とされるべきモノに対しても日本人は「美辞麗句」を使っていたからであろう。役人が考える文章のように。けど、「美辞麗句」自体が悪いのではない。使い方を間違えているだけなのだ。そういう私も「美辞麗句」が好きだったりする。

 今まで日本の教育では論理的思考がかなり軽視されてきた。その反動で今はどこでもだれでも論理的思考を強く求めている。問題だと考えるのは、振り子が完全に振り切って論理的思考ばかりに目をやり、日本的情緒は悪しきモノとし排除されていることだろう。確かに、バランスは非常に微妙で繊細だと思う。最適なバランスというのを私は分からない。特に教育ではこのバランスが分からないためになかなか一歩を踏み出せないでいる実情もある。しかし、一歩踏み出してしまえば、なんの迷いもなく、100%で一方に進むのも教育である。危険性はここだろう。だれとてバランスを考える人がいない。いるのかもしれないが、聞こえてこない。書物には批評として反対意見が多数見受けられることもあるが、それは極端な例しか現われない。

 論理的思考の欠点は極端になりすぎて「あいまい」が排除されることにある。予定調和しか認めない風潮は危険だと思う。「ああなればこうなる」となると問題責任ばかりを追及する犯人探しが横行するであろうし、責任転嫁の逃げ道を懸命に探す輩もすでにいる。法の抜け道を探すことがその極端な例であろう。しかし、これが論理的思考の最大の欠点であることを「国家の品格」は呈している。

 もうひとつ。外国人が映画や絵画などのコメントを言うのを聞いたことがあるだろうか?彼らは何かしら明確にポイントを絞ってコメントをする。例えば絵画なら「大胆な筆遣いが力強さを表している。タイトルと呼応して素晴らしいねぇ」などなど。私はこのようなコメントを聞くたびにどうにもこうにも「薄っぺら」く聞こえて仕方がない。そんな単純な言葉で説明できるものなのか?といつも思い、コメントをした人の感受性の困窮さを嘆いている。もちろん、彼らがこのような何かしら必ず明確にポイントを指摘してコメントするという教育を受けていることを知っているので仕方がないことだと理解しているが、それでも違和感が残るのだ。これは、私が論理的思考を教育されていないからなのかもしれない。しかし、映画監督であったり、アーティストがコメントする際はこの限りではない。意外に、抽象的な言葉を使い、「そういうものなのだ」と思考停止言語を使うことも多々ある。しかも彼らはそれを英語で話している。

 論理的思考は絶対に必要なスキルであることは間違いない。しかし、それが絶対ではないことも同時に考えていかなければいけない。日本的情緒を捨てた英語を話せる日本人には価値はあまりないように思えるし、もったいないことである。

Friday, July 21, 2006

フィンランドのカルタ

 フィンランド教育への関心は日に日に高まっているように感じる。教育ルネサンスでフィンランドの国語教育、フィンランドメソッド(記事中では読解メソッドと読んでいる、混乱するので統一してもらいたい)を日本で行っている学校が紹介されていた。それは京都にある。

小中一貫(7) 視覚で養う読解・思考力 : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 記事にも書いてあるように京都は挑戦的な教育改革を実行している。教育改革のデパートとはよく言ったものだ。私の印象も同じである。品川よりも京都のほうが意欲的に思う。

 さてさて、フィンランドの国語教育でよく出てくる言葉がある。それがタイトルにもつけた「カルタ」だ。日本のカルタとはチト違う。日本的に言うとマインドマップだ。Googleさんでイメージ検索すればマインドマップを見ることができます。

 フィンランドメソッドは国際学習到達度調査(PISA)の読解力テストで連続1位を獲得していることから考えると成果があるといえる。私自身も自己啓発のひとつとして書籍を読んでもいる。学校教育にも用いたいと思っているし、そのアイディアも考えある。フィンランドメソッドが効果的な学習方法であることは広く知られているのに、小中一貫の特集でとりあげられていることに「なぜ?」と私は思うのだ。

 ひとつ、私が思うに、今までの制度が縦の関係で全くつながっていなかったと暗に知らしめたいのではないか。具体的に、ここがダメなんだということは一言で言えないが、語学は継続しなけりゃ意味がないことを知らしめたいのだと思う。英語ばかりでなく、日本語においてもだ。

 そして、もうひとつ思ったことに「モノ分かりの悪い先生」でなければいけないのではないだろうか。いくら授業で論理的な考え方について学習しても、それを活用する場所がなければ定着しないというのは英語と同じだと思う。子どもたちの言葉を汲み取って、言いたいことを理解する姿勢は必要だと思うが、「いつ」「だれが」「どこで」などと子どもたちの言葉が足りなければ「モノ分かりの悪い先生」になる必要もあるであろう。先生ばかりでなく家庭でも「モノ分かりの悪い親」を演じることも必要なんだろう。

Sunday, May 07, 2006

本屋のオヤジが気づいたこと

 このような試みが行われていることすら知らなかった自分にガッカリですが、現社会におけるひとつの問題提起にも一役買うのではと思う。

asahi.com: 「中学生はこれを読め」 書店主が推薦リスト、全国波及 - 教育
 札幌の本屋のオヤジは気がついた。「最近の中学生は本を読まないと言うが、うちには彼らのコーナーがなかった」。オヤジは500冊のお薦めをリストアップし、専用の棚を作って、こんなキャンペーンを始めた。「本屋のオヤジのおせっかい 中学生はこれを読め!」。それから1年半、おせっかいは全国に広がっている。
 本屋のオヤジの言葉に
「最近の中学生は本を読まないと言うが、うちには彼らのコーナーがなかった」
というのがあったが、これが現実だろう。Web進化論でも触れているが、書店には実空間に収めされるだけの本しかおけない。しかも、あまり売れない本をおくだけでは、在庫負債といった形になってしまうので、基本的にはどこの書店も似たり寄ったり、かつ、売れ筋の本をおくことになる。それじゃイカンと気が付いたオヤジに拍手を送りたいです。

 こういった試みは学校外だからこそ機能すると私は考えているので、できれば、学校教育には持ち込まないでもらいたい。なぜかというと、学校教育に吸収されてると、当初の目的が変わってしまって、まるきし機能しないことが多々あるという話を聞いたことがその根拠。具体的にどれとどれと言えないが、これは間違っていないという気がしている。

Tuesday, February 14, 2006

深める伝え合う力(6) 「話す・聞く」指導手探り : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 結局はすべて「話す・聞く」ということに集約されそうな内容だ。ここで、問題にしているのは旧課程の人たちの「話す・聞く」能力の低さ。従来の国語教育が識字率と教養に偏ったものだと明言したととれる発言だ。

深める伝え合う力(6) 「話す・聞く」指導手探り : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 教える側の力量アップを図る試みもある。

 担当教諭の辻裕子さん(47)は、生徒たちにあえて難題を投げかけた。生徒が「部活を休ませてください」と先生に頼み、先生に「今回だけだぞ」と言わせれば合格だが、休む理由は言えない設定だ。

 大津市の市立瀬田北中学1年1組で昨年11月に公開された国語科の授業。生徒たち約30人は6班に分かれ、班ごとに生徒役と先生役に分かれて発表した。

 「1回ぐらい、いいじゃないですか」と哀願調の生徒もいれば、「家の用事があるんです。でも、どんな用事か言えないんです」とルール違反ぎりぎりの生徒もいる。

 この授業は、相手に思いを伝えるにはどう工夫すればいいか、生徒に考えてもらう狙いがある。辻さんは「最初に『申し訳ありませんが』などと言って、話し手の感じの良さや、相手へのいたわりの言葉を伝えることが大切。相手の立場や、どういう場面で何のために話すかも考えて」と言って、授業を締めくくった。



 辻さんの授業のもとになったのは、大津市教育研究所が主催する教員向け研修講座。教師の授業力を高め、授業作りのリーダーを育てる目的がある。

 今年度は辻さんら中学の国語科教諭14人が参加し、「教えるのが難しい」という参加者の要望で「話す・聞く」というテーマをとり上げた。辻さんたちは授業のアイデアを2分間のスピーチで発表したり、対話劇や討論ゲームなどの指導案を出し合ったりしてきた。

 その仕上げが11月の公開授業だ。「生徒に会話をさせると、授業の本筋に戻れないケースもある」「生徒同士の人間関係やクラスの雰囲気次第で、授業の出来が左右される」……。終了後、教師たちからは、「話す・聞く」をテーマにした授業の課題や悩みが次々と飛び出した。



 だがなぜ、難しいのか。

 「話す・聞く」というテーマは1998年の学習指導要領改定で、中学生の各学年すべての国語の教科書に、該当する単元が設けられた。だが、研修の指導にあたった滋賀大教育学部助教授の牧戸章さん(45)は意外な実情を指摘する。

 「教師は大学の教員養成課程で、この単元をどう教えるかを学んでいないんです。書店の専門書コーナーでも、『読む・書く』に比べて『話す・聞く』に関する本の数は格段に少ない。教師は現場で手探りしているのが実態です」

 同研究所は今年度、この研修講座以外にも「話す・聞く(伝え合う)」をテーマに、幼稚園と小学校が連携した取り組みや、小学校の研究指定校でも授業を実践し、今後も研究や研修を続けていく方針だ。

 「話し言葉を日々の授業で指導できるのは国語科しかない。学校生活は聞くことに圧倒的に偏っており、もっといろんな取り組みがあっていい」。牧戸さんは、教育現場のさらなる創意工夫に期待している。(関口和哉)

 小学校では「読む・書く」に重点

 文化審議会国語分科会は2004年2月、「これからの時代に求められる国語力」と題する答申をまとめた。「国語はコミュニケーション能力の基盤をなし、文化の中核」と位置づけ、現状では円滑な人間関係を築くための「話す力」「聞く力」が十分育成されていないなどとして、「伝え合う」ことの重要性を指摘している。ただ、小学校の指導の重点は「読む・書く」にあるともしている。

 実際、就職してから一番はじめに教育されることは「受け答え」である。そして、議事録の取り方。議事録の取り方など学校教育で教えているところはあるのだろうか?

 日本人は「察す」文化であることは、誰が見ても明らかだろう。しぐさ、声のトーンなど非言語コミュニケーション(Nonverbal communication)の文化だと。今問題なのは、この日本の伝統的文化と言語コミュニケーションが混沌としているために、食い違いや差異、「気が付かない」や「言葉が足りない」といったお互いに不満が滲み出ているような感じを受ける。

 実は外国語教授においてもここら辺の国語力が問題視されている。言語技術という考え方は、少なくとも私が受けてきた国語教育にはなかったと思う。



 もちろん、日本の文化を継承するためにも従来の国語教育はなくてはならないと思う。しかし、生活に必要な技術である、言語技術も意識していかなければならないと思う。手っ取り早い方法だと、外国語教育(英語教育)でこれをカバーしようとする考え方ができる。

 しかし、母国語でこれができないと結局は外国語にも反映されにくい。「察し」というのは実に高度な技術だと私は思う。でも、「察し」も論理的に考えなければ、本当の理解にはならないのではないでしょうか?