Tuesday, February 14, 2006

深める伝え合う力(6) 「話す・聞く」指導手探り : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 結局はすべて「話す・聞く」ということに集約されそうな内容だ。ここで、問題にしているのは旧課程の人たちの「話す・聞く」能力の低さ。従来の国語教育が識字率と教養に偏ったものだと明言したととれる発言だ。

深める伝え合う力(6) 「話す・聞く」指導手探り : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 教える側の力量アップを図る試みもある。

 担当教諭の辻裕子さん(47)は、生徒たちにあえて難題を投げかけた。生徒が「部活を休ませてください」と先生に頼み、先生に「今回だけだぞ」と言わせれば合格だが、休む理由は言えない設定だ。

 大津市の市立瀬田北中学1年1組で昨年11月に公開された国語科の授業。生徒たち約30人は6班に分かれ、班ごとに生徒役と先生役に分かれて発表した。

 「1回ぐらい、いいじゃないですか」と哀願調の生徒もいれば、「家の用事があるんです。でも、どんな用事か言えないんです」とルール違反ぎりぎりの生徒もいる。

 この授業は、相手に思いを伝えるにはどう工夫すればいいか、生徒に考えてもらう狙いがある。辻さんは「最初に『申し訳ありませんが』などと言って、話し手の感じの良さや、相手へのいたわりの言葉を伝えることが大切。相手の立場や、どういう場面で何のために話すかも考えて」と言って、授業を締めくくった。



 辻さんの授業のもとになったのは、大津市教育研究所が主催する教員向け研修講座。教師の授業力を高め、授業作りのリーダーを育てる目的がある。

 今年度は辻さんら中学の国語科教諭14人が参加し、「教えるのが難しい」という参加者の要望で「話す・聞く」というテーマをとり上げた。辻さんたちは授業のアイデアを2分間のスピーチで発表したり、対話劇や討論ゲームなどの指導案を出し合ったりしてきた。

 その仕上げが11月の公開授業だ。「生徒に会話をさせると、授業の本筋に戻れないケースもある」「生徒同士の人間関係やクラスの雰囲気次第で、授業の出来が左右される」……。終了後、教師たちからは、「話す・聞く」をテーマにした授業の課題や悩みが次々と飛び出した。



 だがなぜ、難しいのか。

 「話す・聞く」というテーマは1998年の学習指導要領改定で、中学生の各学年すべての国語の教科書に、該当する単元が設けられた。だが、研修の指導にあたった滋賀大教育学部助教授の牧戸章さん(45)は意外な実情を指摘する。

 「教師は大学の教員養成課程で、この単元をどう教えるかを学んでいないんです。書店の専門書コーナーでも、『読む・書く』に比べて『話す・聞く』に関する本の数は格段に少ない。教師は現場で手探りしているのが実態です」

 同研究所は今年度、この研修講座以外にも「話す・聞く(伝え合う)」をテーマに、幼稚園と小学校が連携した取り組みや、小学校の研究指定校でも授業を実践し、今後も研究や研修を続けていく方針だ。

 「話し言葉を日々の授業で指導できるのは国語科しかない。学校生活は聞くことに圧倒的に偏っており、もっといろんな取り組みがあっていい」。牧戸さんは、教育現場のさらなる創意工夫に期待している。(関口和哉)

 小学校では「読む・書く」に重点

 文化審議会国語分科会は2004年2月、「これからの時代に求められる国語力」と題する答申をまとめた。「国語はコミュニケーション能力の基盤をなし、文化の中核」と位置づけ、現状では円滑な人間関係を築くための「話す力」「聞く力」が十分育成されていないなどとして、「伝え合う」ことの重要性を指摘している。ただ、小学校の指導の重点は「読む・書く」にあるともしている。

 実際、就職してから一番はじめに教育されることは「受け答え」である。そして、議事録の取り方。議事録の取り方など学校教育で教えているところはあるのだろうか?

 日本人は「察す」文化であることは、誰が見ても明らかだろう。しぐさ、声のトーンなど非言語コミュニケーション(Nonverbal communication)の文化だと。今問題なのは、この日本の伝統的文化と言語コミュニケーションが混沌としているために、食い違いや差異、「気が付かない」や「言葉が足りない」といったお互いに不満が滲み出ているような感じを受ける。

 実は外国語教授においてもここら辺の国語力が問題視されている。言語技術という考え方は、少なくとも私が受けてきた国語教育にはなかったと思う。



 もちろん、日本の文化を継承するためにも従来の国語教育はなくてはならないと思う。しかし、生活に必要な技術である、言語技術も意識していかなければならないと思う。手っ取り早い方法だと、外国語教育(英語教育)でこれをカバーしようとする考え方ができる。

 しかし、母国語でこれができないと結局は外国語にも反映されにくい。「察し」というのは実に高度な技術だと私は思う。でも、「察し」も論理的に考えなければ、本当の理解にはならないのではないでしょうか?

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