Wednesday, January 23, 2008

田嶋幸三 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』

 エントリを立ち上げるかどうか迷ったが、重要な示唆があるので書く。

Amazon.co.jp: 「言語技術」が日本のサッカーを変える (光文社新書)

 本書は、日本サッカー協会専務理事の田嶋幸三氏によるサッカー論である。なぜ言語技術がサッカーを変えるのかは本書に書かれている。私はサッカー経験者ではないので技術的なことは分からない。私が注目したのは、本書に書かれている文科省の対応だ。

 コトの運びはこうだ。田嶋氏がドイツに留学していたとき、ドイツの子どもたちが「バカ蹴り」をしないことに驚いたという。「バカ蹴り」とは、とりあえず大きくクリアしとけというもので「目的のないキック」のこと。素人が試合をするときによく見られる光景だ。サッカーの試合でボールに触れるのは多くて100回程度、そのほとんどが「バカ蹴り」だったら無駄な練習ということになる。そこで、田嶋氏はドイツ留学の経験から言語教育を幼いうちから学ばせる必要性を感じた。

 そこで、帰国して、言語学習を実現するために文科省の役人を訪ねました。ところが、返事は「やめたほうがいいよ」というものでした。
「公立学校でそういう言語教育を実現しようとするなら、およそ20年はかかるだろう」「もし本気で実現したいと考えるなら、私立の教育機関として取り組んだほうがいいですよ」という忠告までいただきました。(pp.110)

 田嶋氏がいつ文科省を訪ねたのか明記がないが、プロフィールを見るとドイツからの帰国は86年である。仮に86年に文科省を訪れたとしても、2006年には本書に書かれているような言語教育が実現できた。書かれている言語教育とは、先日書いた三森ゆりか氏のモノである。三森氏は日本サッカー協会のエリートプログラムに参加している。

 実際、文科省の20年かかるという発言はウソではない。エリートプログラムも生徒募集は2005年からである。しかも、1校のみでた。これで考えると、全義務教育過程の学校で行うよう指導するとなると20年でも怪しい。しかし、エリートプログラムを行っているのはJFAアカデミー福島である。日本サッカー協会は、一から学校を作り上げた。ここは全寮制の学校である。私はイギリスのパブリックスクールを思い浮かべるが、あながち間違いではないだろう。ただし、学校と書いたが子どもたちは地元の中学・高校へ通う。行政とのやりとりもかなりの時間がかかったのではないかと推測する。

 田嶋氏は日本サッカーを強くしたいと思い、言語教育を文科省に提言した。これがいけなかった。もっと、文科省にも得となるはなしをこしらえてから持っていけば、文科省の態度も変わったかもしれない。時代もあるだろう。時はバブル経済ど真ん中だった。

 昨今PISAの成績が世間を賑わせている。文科省は本腰をいれて言語技術を義務教育に導入させようとしている。

Sunday, January 20, 2008

三森ゆりか 『外国語で発想するための日本語レッスン』

 本書は、苅谷剛彦氏の『知的複眼思考法』の前の基礎として必須本である。スゴ本。

Amazon.co.jp: 外国語で発想するための日本語レッスン

 コミュニケーションは階層構造だ。本書のスタンスはこれ。コミュニケーションの階層構造というのは、コミュニケーションは言葉と論理でできているということ。

私が皆さんに伝えたいのは、「知識と技能が言葉を越えて理解に繋がる」ということです。(pp.41)

 ここでの言葉は、日本語や英語などの言語のこと。知識と技能は、論理のことである。本書は論理を鍛えるものである。最近読んだ、『議論のレッスン』にも同じようなことが書かれている。

Kさんの経験は、ある特定の言語から論理が独立であることを示すいい例だと思います。(福沢一吉 『議論のレッスン』、生活人新書、pp.56)

 どちらも同じことを言っている。好みのほうをどうぞ。

 さて論理の鍛え方であるが、本書では西洋式の読書技術を鍛えることをお勧めするとある。その西洋式読書技術は「テクストの分析と解釈・批判」(クリティカル・リーディング)である。

 クリティカル・リーディングというと批判とか批判的ということばが思いつく。そして、これは正しい。しかし、批評や批判は最終段階である。本書のすばらしいところは、批評・批判的態度を身につけるための教育手順が示されている点にある。そのため、文章を教材にするのではなく、ワンクッションかませて絵を教材にする。

 絵を教材にするには理由がある。観察、分析、仮説の訓練のためである。まずは絵を見ること、これが観察にあたる。観察はあるがままに受け止めることも意味する。クリティカル・リーディングとは正反対の態度である。しかし、ものごとの順序からいけば正しい。そして、あるがままに受け入れたものを分析する。分析したものから仮説を導く。絵画批評そのものである。

 私が本書を読んで強く感じたことは、西洋の読書技術は科学的思考そのものだということだ。茂木健一郎氏のLecture Recordsに以下のような話がある。どのLecture Recordsだったか失念してしまったが、講義ではなく講演である。そして、講演は似た話を毎回しているので聞いてみてください。

科学者はハンドウェービングは駄目なんですね。Cambridgeの学者は、自分の考えた説をテーブルの上のオブジェを見るかのように、「ここがでっぱっているね」とか「ここがくもっているね」とか評するんです。誰がその説を考えたかなんてのは関係なく、イイところ、ワルイところを議論するんですね。

 科学の場合、文脈を読むというのは比較的理解しやすいと思う。科学は主観を扱わないからだ。主観が混ざるものは科学のフィールドに立てない。日本の批評が、誹謗・中傷になりがちなのは必然とも思える。同じく茂木氏のLecture Recordsに小林秀雄の編集者をしていた池田雅延氏の講演が興味深い。

茂木健一郎 クオリア日記: 池田雅延氏 小林秀雄を語る

相手に因縁やイチャモンをつけるときに、批評という言葉が使われることが多いように思う。

 PISAで読解力が低下したといって、「大変だ、大変だ」と騒いでいるが、なんてことはない。池田氏の発言は、日本人の常識を示してくれた。それが常識であるために、身についていないと日本では生きにくい。これは本書の範囲ではない。

 前著の『外国語を身につけるための日本語レッスン』は、論理的な説明の仕方、文章の書き方、質問の仕方などなどの能動的スキルであった。ショックなことに感想を書いていなかったらしく、どこを探してもない。マインドマップもない。肝心の書籍もない。最悪である。

Tuesday, January 15, 2008

田村仁人 『アタマが良くなる合格ノート術』

 評判よろしく、コーネル大学式ノートについて書かれているというはなしを聞いたので読んでみた。

Amazon.co.jp: アタマが良くなる合格ノート術

 ノート術の本では過去に『和田式 書きなぐりノート合格法』というのを読んでいる。まともに読んだノート術の本はこの1冊だけである。しかし、ほとんど同じことが書かれている。驚いた。

 ノートの目的は共通して、「分からないことを明確にするのがノートの目的である」ということを掲げている。コーネル大学式ノートでは、これはCuesにあたる部分。

 文字についてであるが以下の3点が共通だ。

  1. 大きく書く
  2. 余白を十分に
  3. あまりカラフルにしない

ここら辺は常識なのだろう。シナプスがでた。

 タイプ別のノートのとり方というのもある。共通しているのは、インプット型とアウトプット型。インプット型は、社会教科や英語ならグラマーなどの知識説明型。アウトプット型は、数学や英語なら英文和訳などの問題演習型。和田式のほうはインプット型の分類がもっと細かい。ちなみに、私が所有している和田本は93年初版のやつである。アップデートされているかもしれないのであしからず。

 共通する部分はおおよそこんな感じである。で、本書と和田本の違い。

 本書は読みやすい。私の読書力でさえ、30分で読み終わる。170ページあるのだが文字数は極端に少ない。内容が薄いわけでない。レファ本として、使いやすい可視性でまとめられているのではないかと思う。これは、和田本と比較すると分かりやすい。

 和田本は読み物だ。絵も説明も十分で内容量たっぷり、しかも見開き1ページで完結するよう構成されていてすばらしい。しかし、教科書、もしくは専門書といった感じである。

 どちらが使いやすいかというと、それは個人の好き好きだ。私の場合は、本書がメインになるだろう。和田本はサブになる。しかし、これは和田本が劣るというわけではない。むしろ、和田本の情報量の多さを意味する。気になったところは和田本で確認するということになるからだ。ということは、結果的には和田本を見る回数が増えることだろう。予期せぬ副産物であった。

Saturday, January 12, 2008

しんしん

 今朝は冷えた。日中も寒かった。ぽつぽつ雨が、いつのまにか、ぼたぼた霙になっていた。冷たい空気が部屋をめぐる。窓の外を見る。しんしん雪が落ちていた。初雪だ。

 天気にはにおいがある。においがあると思う。なんとなく雨降りだなぁと思うと、雨が降る。このなんとなくをにおいと表現している。同じように、雪にもにおいがある。

 窓の外のエンジンの音がぼやけていく。雪が降ると静かになる。鳥の声ばかりでなく、人工物の発する音も耳に届かなくなる。これが気持ちいい。

 この雪は積もることがない。明日の心配もいらない。いい塩梅。

苅谷剛彦 / 西研 『考えあう技術』

 教育を哲学する。本書はディープだ。

Amazon.co.jp: 考えあう技術 (ちくま新書)

 教育を哲学するというと、ロックとかコメニウスとかマンとかフレーベルとかデューイとかを浮かぶ人もいるだろう。本棚に置いていない教科書を引きずり出し、目次に書かれている人名の一部をあげてみた。これらの思想家を知らないと本書を理解できないということはない。もちろん、名前くらいはでてくる。でも、名前がでてくるくらいだ。

 本書のタイトルは『考えあう技術』である。このタイトルだけだと自己啓発の本と思われてもしかたない。苅谷剛彦氏と西研氏の対談を通じて、本書のキーワードでもある「追体験」ができる。目次には「練習問題」と題したページもある。実際に自己啓発の本だ。苅谷氏の著書は一貫して「考える」である。苅谷氏の場合、考えるための材料が「教育」なのだ。

 さて本書の「あとがき」にあるように内容の抽象度は高い。

私自身にとって今回の対話では、学校の現状や今進む教育改革の具体的な問題点の議論は、意識的に遠ざけた。哲学的な思考に寄り添うことで、一度抽象度を上げた議論を詰めたほうが、教育の意義や学ぶ意味を再構築するうえで有効だと考えたからである。(pp.269)

 抽象度が高いことをメタレベルが高いというらしい。私は「メタ」ということばを普段使わないので、この理解で正しいのか判断できない。まぁ、よしとしよう。

 本書がどれくらい抽象度が高いかというと、民主主義から話がはじまる。民主主義から、それを支える市民。その市民に民主主義から与えられる自由。その自由をささえるルール。自由と対立する徳目主義。自由と個人。などなど、この考えは言及されれば「当然のこと」と思うのだが、私はトンと忘れてしまっていた。多くの人は忘れてしまっているのではないだろうか。暗黙の共有部分のはずだ。この大前提が悩ましい部分だといっているが、それを解決できるであろう手法がキーワードの「追体験」だ。これは授業でやってみたい。

 本書を読んで、イギリスでの市民教育が新聞で特集されたのを思い出した。
イングランド報告(2) 「市民育成」高評価生む : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
イングランド報告(9) 「市民とは」教え方手探り : 教育ルネサンス : 教育 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
 この手はまだロールモデルがありそうだ。

Friday, January 04, 2008

内田樹 『先生はえらい』

 本書は教育書か?素直に感じた思いである。先生の専門性をデータで擁護しているような「ありきたりな」教育書ではない。もし、教育書と思っていて躊躇しているならば、さっそく読んでほしい。

Amazon.co.jp: 先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 私は『先生はえらい』というタイトルで尻込みしていた。上に述べたようなデータ、データ、またデータで先生を擁護しているようなモノであれば、それは私にとってはつまらないモノだからだ。よくよく考えれば「ちくまプリマー新書」である。そんなはずはない。ましてや、内田樹である。ますます、そんなはずはない。

 タイトルの「えらい」がひらがなだ。読み終わってから気がついた。なぜ漢字の「偉い」ではないのか?中高生向けだからか?だったらバカにしすぎである。意図があるのだろうと勘ぐる。

 稚拙な文章ではあるが、私も文章を書く。そのときに注目をさせたいことばには目印をつける。漢字ではなくひらがなやカタカナで書いたり、括弧でくくったりする。ならば「えらい」は注目させたいことばだ。そこらへんは本書にちゃんと書いてある。

 本書は自分をすっかり変えてしまう力を持っている、恐ろしい本である。恐ろしいというと語弊があるかもしれないが、自分がすっかり変わってしまうのである。毒にも薬にもなりうる。恐ろしいも含意だろう。しかし、当事者(中高生)には本当に恐ろしいモノとなるかもしれない。当事者は注意して読むように。

see also
内田樹の研究室: 『先生はえらい』!