Monday, December 31, 2007

NHK「変わる教育どうする教育」をみて

 12月28日深夜、NHKで『双方向・夜どおしナマ解説 どう読む激動の2008年』というのが放送されていた。NHKの解説員による討論で、第2部の「変わる教育どうする教育」を見た。

 内容を対立項で示すと2つに絞れる。
  1. ゆとり教育と詰め込み教育
  2. 学校教育と家庭教育

1.ゆとり教育と詰め込み教育
 すっかり常套句となった。あいかわらずことばの定義はひとそれぞれである。話がかみ合っていない。この討論番組でのゆとり教育は、「教える内容を減らしたこと」、「教える時間数を減らしたこと」、「総合学習の導入」としていた感があった。まぁ、よい。事実だからしかたない。

 ゆとり教育と詰め込み教育は、考える力と知識と言い換えられている。不毛な対立だと思うのだが、なかなかなくならない。学力の定義がむずかしいからだ。

 学力とはなにか?なんだろう?私はよくわからない。「成果の見える学力」ということばがでた。「成果の見える学力」とは何か?これがキーワードになると思う。

 まず思いつくのはテストだ。テストってなんだ?テストは合格基準に達しているか否かを判別するためのモノだ。合格基準に達していないものは、もう一度というのが筋のはずだ。日本ではこれを試験という。私の語感では、テストは模試ということばに置換わる。中間や期末などはテストの位置づけだと思っている。先生はそう思わない。試験だ。試験は合否のみを重要視する。なぜ間違えたかなど野暮なことはしない。ゆとり教育のコアはこの部分を改善することだった。番組内での認識はこの部分に集約できる。きちんと理解しているようでホッとした。

 時代の流れは成果主義である。「成果の見える学力」とつながる。先生にも成果が求められる。先生の成果とはなにか?よい高校や大学へ多くの生徒を入学されることらしい。今年は合格者数で偽装もあるくらいだ。イギリスでは学力テストの成績で教員の評価が下されるらしい。番組内の発言ではじめて知った。どうやらうまくいっていないようだ。これを聞いて考え直してもらコトもある。


2.学校教育と家庭教育
 学校教育に何を求めるか?私の認識では割れている。

 学校には集団生活の場がある。なので、社会のルールやコミュニケーションスキルを教えてもらいたい。いやいや、教育格差がないよう、学校でも塾や予備校並みに勉強に力をいれてほしい。このふたつで割れているように感じる。

 私は前者が学校の役割と思っている。もっとラディカルに学校は遊び場でもよいのではないかとも考えている。誤解がありそうだが、勉強もする。しかし、遊び場である。以下の記事がよくまとめられている。

404 Blog Not Found:独学は一人では出来ない

その意味で、今の学校は実に中途半端に思える。まず「砂場」が少なすぎる。午後の授業は必要だろうか。学科として必須なのは母国語と数学ぐらいではないか。二時限もあれば足りるだろう。中学校以降はこれに外国語を加えても、三時限。残りは「砂場」でいいのではないか。

ただし、この「砂場」は望めば学習も出来るようにしておく。ここが肝要である。そこでは子供が学びたいものを、好きなだけ学べるようにしておく。もちろん独学してもよいし、そのへんにいる大人を捕まえて質問攻めにしてもいい。そういう大人が常に出入りしているような場にしておくのだ。「課外授業~ようこそ先輩~-」を毎日やっているようなイメージか。


 私がこの番組でいちばん惹かれたのは中谷日出解説員であった。中谷解説員は「美術や図工」の普及提言をしている。激しく同意だ。なぜか?格差を考えたときに如実に違いが現れるのがこの分野でなかろうか?学習塾に通える、通えないということよりも違いが生まれやすい。家計に「芸術費」などを繰り込む家庭は少ないだろう。その時点で格差が発生している。

 それでは美術や図工の教育効果ってなんだろう?そんなもんは分からない。国語だって、数学だってほんとうは分からない。教えることはできるが、それで子どもが変わるのかどうかは子ども次第。その部分を真摯に見つめなければいけない。

see also
教育に情熱をかける教師のために: 変わる教育どうする教育
教育の窓・ある退職校長の想い:ゆとり教育、是か非か。(日本の悲しい『さが』) - livedoor Blog(ブログ)

Friday, December 28, 2007

内井惣七 『パズルとパラドックス』

 Lewis Carrollが数学者であることを知ったのは数年前である。

Amazon.co.jp: パズルとパラドックス

 ナンセンス本として『アリス』は有名らしい。私はナンセンスが何なのかよく分からない。「くだらない冗談」というくらいの意味だろうか。なぜ「くだらない」のか?冗談の意味が分からないからだろう。冗談の意味は何か?ことばや文化とされているような気がする。「外国人と笑いのツボが違う」という言い方を聞く。本書は「いやいや、それらを差し引いても面白いですよ」という。差し引いて残るもの、論理だ。

 本書は論理の本である。論理パズルであるが、論理でよいだろう。これらの違いがよく分からない。読み進めるとゲーデルの不完全性定理にたどりつく。不完全性定理に耐えられるだけの下ごしらえもしてあると思う。

 本書で残念なところは、関西弁?大阪弁?で書かれていることである。『アリス』と論理を絡めた、この手の本はいくつか確認しているのであるが、縦書きではなかったと思う。縦書きが本書を手にした理由に含まれている。しかし、横書き以上に関西弁がストレスになった。

Tuesday, December 25, 2007

天外伺朗 / 茂木健一郎 『意識は科学で解き明かせるか―脳・意志・心に挑む物理学』

 天外伺朗氏と茂木健一郎氏との対談本である。「不思議な組み合わせだ」というのが、私の感想である。Googleさんに問い合わせてみるとそうでもないらしい。

Amazon.co.jp: 意識は科学で解き明かせるか―脳・意志・心に挑む物理学 (ブルーバックス)

 本書をつきつめてまとめると、意識をどう捉えるか、それが問題だという。わかりやすい。タイトルままである。

 コトの発端は量子力学としている。なぜ量子力学なのかというと観測問題がキモである。これが活性剤であり、ワルさをするトリックスターだ。なので、量子力学が本書の大半を占めている。これはこれで、私は有意義であった。本書を科学史としてみると面白いと思う。

 全く関係ないが、本書pp.83-85にある熱力学の第二法則の好例とされる、グリセリンの中で拡散するインクの実験を見たことがある。現在は削除されてしまっている。残念。

橋爪大三郎 『はじめての構造主義』

 「はしがき」に

ちょっと進んだ高校生、いや、かなりおませな中学生の皆さんにも読んでいただけるように、書いてみました。(pp.3)

とあるように読みやすい。

Amazon.co.jp: はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 「読みやすければよいのか」といわれると閉口してしまうが、「はじめて」という冠をつけているのであれば、とにかく読んでもらわなければはじまらない。本書は目的を果たしている。

Sunday, December 23, 2007

福澤一吉 『議論のレッスン 』

 論理学の本かと思って読んでみたが、ディベートの本だった。

Amazon.co.jp: 議論のレッスン (生活人新書)

 私はディベートには興味がない。興味はないのだが、身につけたいスキルと思う。なぜ、身につけたいスキルなのかは、本書pp.32の「大学教員には議論スキルがあるか」に書かれていることに問題意識を感じており、どうにかできないものかと思っているからだ。そこにはこのように書かれている。

講義のときに質問して、「なんだその質問は。もっとまともなことを考えてから質問しろ」などと教員にいわれたら、あなたはどうしますか。怯んでしまいますか。それとも毅然としてそういわれたこと自体に反論するでしょうか。(pp.32)

日本では「質問の内容いかんにかかわらず、質問すること自体がその人に対する批判である」といった図式がまだあるのかもしれません。(pp.33)

 私にとっては十分満足な問題提起である。

 本書では議論にはルールがあると示している。トゥールミンの議論モデルというらしい。このトゥールミンの議論モデルのみを扱っている。あれやこれや欲張っていないのですっきりしていて読みやすい。

 「おわりにかえて」にもあるように「論理」を扱っていない。ちょっと待て。ディベートは論理性を競い合う競技なのではないか?その議論モデルなのだから、「論理」を扱っているのではないだろうか?こう考えるのは自然だと思う。私たちは、小学校のときに作文の書き方で「起承転結」というのを教わる。本書で扱っているトゥールミンの議論モデルはこれと同列である。スタイルであり、「論理」ではない。

 続編があるようだ。そちらで「論理」を扱っているのだろう。期待したい。

Wednesday, December 19, 2007

池上嘉彦 『<英文法>を考える』

 最近のNHK教育の英語関連の番組を観ていた人には新しいことはない。

Amazon.co.jp: 「英文法」を考える―「文法」と「コミュニケーション」の間 (ちくま学芸文庫)

 本書は1991年に「ちくまライブラリー」から刊行されており、私が読んだのは1995年に刊行された文庫版。内容は16年前の本である。

 本書を手に取ったきっかけは、認知言語学の入門書としてリストアップされていたからだ。お勧めらしい。

認知言語学的メモ : 認知言語学文献案内

 認知言語学への興味は、NHK教育の『新感覚☆わかる使える英文法』による。なので、持ち合わせる認知言語学的知識は、この番組からの情報が私のすべてである。

 英単語編は、すぐに書籍になった。なので、英文法編もすぐ書籍になるだろうと思っていた。しかし、英文法編は出版される気配がない。個人的に、ヤキモキしている。

 私が通教で学んでいたとき、言語学関係の授業は「生成文法」のみであった。認知言語学については教授法のスクーリングで「はなし」があった程度で、学問として学んだことはない。

 本書の内容は、私が知っている情報とほとんどかぶる。ということは、『新感覚☆わかる使える英文法』と同等ということになる。私の事前の知識は上記のとおり。

Sunday, December 16, 2007

英語学習と脳科学

 大修館から出版されている『英語教育』の2008年1月号の特集が、「英語学習と脳科学」という面白そうな内容だ。

脳科学がいま元気である。言語学習に関連してさまざまな発見がなされるなか、英語教育界でも、脳科学を視野に入れての種々の提案、実験がされるようになった。新しい動向と最新成果を紹介する。

主要目次
脳内を最適に活性化する英語教授法とは(大石晴美)
英語(L2)の学習は日本語(L1)の語彙辞書を変える!:
 マルチコンピテンス研究が示唆するもの(村端佳子/村端五郎)
早期英語教育に文字はどこまで必要か(井狩幸男)
上級学習者は語彙をどのように理解しているか:
 反応速度と脳賦活から考える(石川慎一郎)
母語が違うと英語の情報処理時の負荷が異なるか(木下 徹)
私たちは日本語や外国語の文をどのように理解しているか(中野陽子)
第二言語習得研究の中の脳科学(松村昌紀)
[コラム]
脳科学から見たことばの習得(井狩幸男)

『大修館書店ホームページ燕館』より引用

 内容は、引用した目次の文字列から想像するものより、より専門的だ。現役の英語教師が触手を伸ばしたとしても、受信者、発信者ともに納得のいく「読み」ができるだろうか。不安はある。

 確かに脳科学は元気だ。しかし残念なことに、学問ではなく商業の面でそれが顕著である。事態がややこしくなる環境は整っている。特に英語に関しては百花繚乱である。教師が学問レベルの研究成果にふれる機会を増やすことは、必要不可欠になったと思う。

 脳科学と教育には政策の後押しもある。

「脳科学と教育」研究の推進方策について-3.「脳科学と教育」研究の推進に当たっての基本的考え方

 これは脳科学を教育に取り込もうというものではない。教育界からの課題に対して貢献できる研究をしてくださいという、科学界に向けた宣言である。ゆとり教育のときと同じように、真意が現場に十分に伝わっているのかあやしい。

 本書はこれから読む。

Saturday, December 15, 2007

苅谷剛彦 『学校って何だろう―教育の社会学入門』

 中学生のための社会学入門書。考える力を鍛える材料がこんなにも身近にある。

Amazon.co.jp: 学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫): 本: 苅谷 剛彦

 本書は中学校が舞台である。なぜ、中学校か?それは、小学校と全く違う教育的価値観が導入されているからである。近年はシンボライズされ、中1ギャップということばがある。

Yahoo!辞書 - 中1ギャップ

 リンク先を見ると新潟県教育委員会が名付け親らしい。私は中1ギャップについて、リンク先以下のことしか知らない。このような教育問題・社会問題があるのにもかかわらず、傍目には、くだらなく、過度に厳しい校則がなぜまかり通るのか?

 本書はそのような疑問に対して答えを示してくれるものではない。むしろ、「もっと悩め」と煽っている。もっともっと考えて、もやもやを自分なりに解消することを勧めている。複眼的思考法を鍛えるためのよい訓練となるだろう。

 中学生が本書を読むことは、よい活性作用があると考えられる。しかし、それを受け止める親や教師が真剣に向き合わなかったり、詭弁で逃れようとした場合に、子どもたちが感じるであろう不安感を増大する副作用となりかねない、と考えるとチト怖い。

Tuesday, December 11, 2007

梅棹忠夫 『知的生産の技術』

 本書を読んでいると、不思議なことに頭の中が整理されているような感覚になる。不思議だ。

Amazon.co.jp: 知的生産の技術 (岩波新書)

 LifeHackの古典ということで読んでみた。いつの時代も同じような苦悩がある。そして、同じような結論にたどり着くものだと思う。最近では、心理学がその領域に踏み込んでいる。市川伸一氏の著書などがそれに当たると思う。学問として成り立つことを切に願う。

 本書は、「メモのとりかた」、「整理」、「読書」、「文章」と多岐にわたる。梅棹忠夫氏は、「京大型カード」の作成者らしい。「京大型カード」という単語は知っていたが、どのようなもので、どのような使い方をするのかは知らなかった。現在では、コンピュータで「京大型カード」を再現できるので、使い方に視点を当てる。

 私がうなったのは、「一枚のカードに、一つの内容」ということだった。これが不思議とすっきりすることだった。でも整理するの大変そうだと思うのだが、読み進めると、「文章」の章でまとめられている。

 もうひとつ、カードの使い方で大切なことは「記録したことは忘れる」ということ。他人が読んでも、理解できる文章で書く。マインドマップとは逆のことをいっているのだが、活用が違う。使い分けが大切だ。私は思いっきり勘違いしていた。

 本書の内容とは全く関係ないが、京都大学ってGoogleのような考え方をもっているなぁと感じた。順番からいえば、Googleが京大みたいだなのだが。

Friday, December 07, 2007

和田秀樹 『和田式 書きなぐりノート合格法』

 機会があったので読んでみた。

Amazon.co.jp: 和田式 書きなぐりノート合格法 (新・受験勉強法シリーズ)

 本書は授業の受け方のハウツウ本である。ハウツウ本というと印象はよろしくない。しかし、授業の受け方なんて誰も習わない。タイトルにもなっている「書きなぐり」がキモだ。

 「書きなぐり」とは、教師のしゃべりをノートに「書きなぐる」ということ。乱暴にノートをとることではない。真意が伝わりにくいことばだと思う。

 最近では大学で、「ノートのとり方を新入生に教えましょう」という試みが行われているらしい。それくらい漠然としたものである。時代は関係ないでしょう。

 ノートはきれいにとりなさいと指導される。小学校低学年なら、それは正しい。書き取りの練習も兼ねているからだ。だからノートの提出を求めることもある。字が汚い、落書きするな、きれいにとれ、と注意する。しかし、それ以上の指導はない。あるとしても、中学で英語がはじまるときだろう。しかし、これも書き取りのレベルだ。

 教師は板書に苦心する。「板書を見れば、授業がわかる」ということばもある。誰が板書を見て授業がわかると評するのか、問題がないわけではないが、板書は教師の評価のひとつである。

 その板書をどう生かすかは、しゃべりにかかっている。教師がもっとも評価される部分だ。小中学校の授業では、しゃべりの部分も板書に書き込む。その感覚で高校の授業を受けると痛い目にあうぞ、と言っているように聞こえた。NHKの高校講座などを見ても違いを感じるだろう。大学になれば、板書はしゃべりのサポートだ。

 今回、本書を読んで感じたのは、和田氏の考えは「活用力」や「応用力」に根付いているということだった。「数学は暗記だ」という有名なことばも、本書を読んで解せた。

Wednesday, December 05, 2007

株式会社立

 「株式会社立」ということばを見て驚いた。

全国で初めての株式会社立小学校を認可/相模原市 : ローカルニュース : ニュース : カナロコ -- 神奈川新聞

 私は「株式会社立」ということばが初見だった。なので、はじめての「株式会社立」の学校ができたのかと思っていた。小学校がはじめてのようだ。

 立て続けに「株式会社立」ということばを目にする。読売新聞で連載されている『教育ルネサンス』というのがある。今回のテーマが「検証 特区の学校」だ。なぜ「特区の学校」が「株式会社立」なのか?

株式会社立中学校・高等学校(かぶしきがいしゃりつちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、小泉純一郎内閣の下で実施された構造改革特区の制度を利用して、株式会社が設置した学校である。日本では学校法人2004年から2007年春までに全国で14の中学校、高等学校がある。既存の学校と違い、カリキュラムを自由に組んで特色を打ち出すことができるのが利点であるが、逆に、私学助成金が受けられず、また学校法人への寄付には認められている税制上の優遇措置がないという財政的に不利な点がある。この不利な点のためか、朝日塾中学校の1校を除いて、株式会社立の学校の形式は通信制高等学校のみである。また所在地も地方の辺地に偏っているのも特徴である。
株式会社立中学校・高等学校 - Wikipedia

 とりあえず、金銭面では不利らしい。しかし、カリキュラムを自由に組める利点があるようだ。なので、カリキュラムを売りにしているらしいというのはわかる。しかし、カリキュラム自体は文科省が口出しするのではないのだろうか。それとも経産省の管轄なのだろうか。よくわからない。

 大学ならば、「学士」が得られるのだろうか。高校なら「大学入学資格」が得られるのだろうか。小学校・中学校なら「高校入学資格」が得られるのだろうか。

 今回の相模原市の株式会社立小学校は、インターナショナルスクールが母体となっている。

Saturday, December 01, 2007

冷泉彰彦 『「関係の空気」 「場の空気」』

 日本語から「空気」を読み解くというスタイルに驚いた。驚いたは大げさかもしれない。私にとっては新しい視点だ。

Amazon.co.jp: 「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)

 「空気」が日本語によるというのは信じられない。少し前の私ならそう思った。そう思わないのには、前提知識がある。

名前をつけるとは、どういうことか。ものを「切る」ことである。…なぜなら、「頭」という名前をつければ、「頭でないところ」ができてしまう。「頭」と「頭でないところ」の境は、どこか。(養老孟司 『解剖学教室へようこそ』 pp.59 ちくま文庫)

 これは、はっとした。

 英語を日本語のように理解できるようになる。そう信じて勉強していた、学生時代。しかし、思うようにいかない。しばらく英語と距離をとっていたが、またトライしようとしたときも同じような気持ちであった。

 養老氏のことばを知った後では、考え方が違う。ことばで区切ることは日本語も英語も違わない。しかし、日本語と英語で包括される意味が違う。だから、外国語がむずかしい。認知言語学の基本的な考えもこれに準じるのではないかと推測している。

 さて話を戻す。

 本書のタイトルにもある「関係」と「場」というキーワードが出てくる。「プライベート」と「パブリック」という意味で使われている。この視点は興味深い。英語でも「プライベート」と「パブリック」の差はあるが、語レベルになると私には見えにくい。日本語は、はっきりしている。「プライベート」と「パブリック」の切り替えに問題があるといっている。

 私は前に敬語はいらないと書いたことがある。特に会議、議論の際のことを念頭においている。活発な議論の妨げになると思っているからだ。上の人はため口で議論しているのに、下の人は敬語を使って議論しなければいけない。出来の悪い、八百長のようだ。そう非難してきた。

 本書では違うという。というか、「です、ます」調を基本形式とすることを提案している。全く、正反対のことを述べているのに、ひどく納得した。「です、ます」調は敬語でも丁寧語でもない。日本語の基本スタイルだといっている。これにひどく同調した。求めたいことは同じである。