Saturday, December 01, 2007

冷泉彰彦 『「関係の空気」 「場の空気」』

 日本語から「空気」を読み解くというスタイルに驚いた。驚いたは大げさかもしれない。私にとっては新しい視点だ。

Amazon.co.jp: 「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)

 「空気」が日本語によるというのは信じられない。少し前の私ならそう思った。そう思わないのには、前提知識がある。

名前をつけるとは、どういうことか。ものを「切る」ことである。…なぜなら、「頭」という名前をつければ、「頭でないところ」ができてしまう。「頭」と「頭でないところ」の境は、どこか。(養老孟司 『解剖学教室へようこそ』 pp.59 ちくま文庫)

 これは、はっとした。

 英語を日本語のように理解できるようになる。そう信じて勉強していた、学生時代。しかし、思うようにいかない。しばらく英語と距離をとっていたが、またトライしようとしたときも同じような気持ちであった。

 養老氏のことばを知った後では、考え方が違う。ことばで区切ることは日本語も英語も違わない。しかし、日本語と英語で包括される意味が違う。だから、外国語がむずかしい。認知言語学の基本的な考えもこれに準じるのではないかと推測している。

 さて話を戻す。

 本書のタイトルにもある「関係」と「場」というキーワードが出てくる。「プライベート」と「パブリック」という意味で使われている。この視点は興味深い。英語でも「プライベート」と「パブリック」の差はあるが、語レベルになると私には見えにくい。日本語は、はっきりしている。「プライベート」と「パブリック」の切り替えに問題があるといっている。

 私は前に敬語はいらないと書いたことがある。特に会議、議論の際のことを念頭においている。活発な議論の妨げになると思っているからだ。上の人はため口で議論しているのに、下の人は敬語を使って議論しなければいけない。出来の悪い、八百長のようだ。そう非難してきた。

 本書では違うという。というか、「です、ます」調を基本形式とすることを提案している。全く、正反対のことを述べているのに、ひどく納得した。「です、ます」調は敬語でも丁寧語でもない。日本語の基本スタイルだといっている。これにひどく同調した。求めたいことは同じである。

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