Sunday, January 20, 2008

三森ゆりか 『外国語で発想するための日本語レッスン』

 本書は、苅谷剛彦氏の『知的複眼思考法』の前の基礎として必須本である。スゴ本。

Amazon.co.jp: 外国語で発想するための日本語レッスン

 コミュニケーションは階層構造だ。本書のスタンスはこれ。コミュニケーションの階層構造というのは、コミュニケーションは言葉と論理でできているということ。

私が皆さんに伝えたいのは、「知識と技能が言葉を越えて理解に繋がる」ということです。(pp.41)

 ここでの言葉は、日本語や英語などの言語のこと。知識と技能は、論理のことである。本書は論理を鍛えるものである。最近読んだ、『議論のレッスン』にも同じようなことが書かれている。

Kさんの経験は、ある特定の言語から論理が独立であることを示すいい例だと思います。(福沢一吉 『議論のレッスン』、生活人新書、pp.56)

 どちらも同じことを言っている。好みのほうをどうぞ。

 さて論理の鍛え方であるが、本書では西洋式の読書技術を鍛えることをお勧めするとある。その西洋式読書技術は「テクストの分析と解釈・批判」(クリティカル・リーディング)である。

 クリティカル・リーディングというと批判とか批判的ということばが思いつく。そして、これは正しい。しかし、批評や批判は最終段階である。本書のすばらしいところは、批評・批判的態度を身につけるための教育手順が示されている点にある。そのため、文章を教材にするのではなく、ワンクッションかませて絵を教材にする。

 絵を教材にするには理由がある。観察、分析、仮説の訓練のためである。まずは絵を見ること、これが観察にあたる。観察はあるがままに受け止めることも意味する。クリティカル・リーディングとは正反対の態度である。しかし、ものごとの順序からいけば正しい。そして、あるがままに受け入れたものを分析する。分析したものから仮説を導く。絵画批評そのものである。

 私が本書を読んで強く感じたことは、西洋の読書技術は科学的思考そのものだということだ。茂木健一郎氏のLecture Recordsに以下のような話がある。どのLecture Recordsだったか失念してしまったが、講義ではなく講演である。そして、講演は似た話を毎回しているので聞いてみてください。

科学者はハンドウェービングは駄目なんですね。Cambridgeの学者は、自分の考えた説をテーブルの上のオブジェを見るかのように、「ここがでっぱっているね」とか「ここがくもっているね」とか評するんです。誰がその説を考えたかなんてのは関係なく、イイところ、ワルイところを議論するんですね。

 科学の場合、文脈を読むというのは比較的理解しやすいと思う。科学は主観を扱わないからだ。主観が混ざるものは科学のフィールドに立てない。日本の批評が、誹謗・中傷になりがちなのは必然とも思える。同じく茂木氏のLecture Recordsに小林秀雄の編集者をしていた池田雅延氏の講演が興味深い。

茂木健一郎 クオリア日記: 池田雅延氏 小林秀雄を語る

相手に因縁やイチャモンをつけるときに、批評という言葉が使われることが多いように思う。

 PISAで読解力が低下したといって、「大変だ、大変だ」と騒いでいるが、なんてことはない。池田氏の発言は、日本人の常識を示してくれた。それが常識であるために、身についていないと日本では生きにくい。これは本書の範囲ではない。

 前著の『外国語を身につけるための日本語レッスン』は、論理的な説明の仕方、文章の書き方、質問の仕方などなどの能動的スキルであった。ショックなことに感想を書いていなかったらしく、どこを探してもない。マインドマップもない。肝心の書籍もない。最悪である。

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