Sunday, August 06, 2006

論理的思考と日本的情緒 | 「教えない」英語教育を読んで

 週末を利用して市川力氏の「教えない」英語教育を読んだ。非常に面白かったが何点か腑に落ちないこともあった。

Amazon.co.jp: 「教えない」英語教育

 まず「教えない」という言葉に非常に惹かれた。私も学ぶことに必要なことはモチベーションだと思うし、それ以外ないとも思っている。英語「を」から英語「で」という言葉は非常に分かり易い言葉である。そして、「子ども英語」と「大人英語」という分け方も目新しかった。「子ども英語」は興味喚起を総括した言葉で、「大人英語」は論理的に英語を理解する、旧来の英語教育の内容を意味している。

 全てにおいて理にかなっているし、うなずけることばかりが並んでいたので非常に有益な書物だと思ったが、もうひとつレベルを上げて考えてみると日本的情緒を捨ててしまうのかという、非常に厄介な問題もあるように思う。

 市川氏は小学校英語教育に反対している有識者のひとりだ。小学校では母語で論理的に考えられるようにすることがもっとも優先順位が高いことで、外国語(英語)は興味喚起の手段の一つに過ぎないと、極端な解釈をすればそうなる。

 論理的に考えることは、母語を修得するのとは条件が違いすぎる外国語修得に際しては必要なスキルであり、外国語を運用するために、要は英語を使う場面で相手の話を聞き、理解し、返答する際のスキルでもあり、外国語に携わる際に気っても切り離せないスキルになる、そういった理由で、母語での論理的思考能力を鍛える必要があるという結論になると思う。小学校英語教育反対を掲げる有識者の書物のほとんどはこの流れで書かれていることにも、外国語を修得し、運用するには母語での論理的思考が不可欠と一つの答えを出したのだ。

 最近、フィンランドメソッドなど海外の論理的思考を鍛えるメソッドが注目を浴びている。徹底的に論理思考を鍛えるプログラムであるが、先の国語教育でも日本的情緒を叩き込むことを目標としていたのに、まぁ、キツク言えば失敗しているのに、日本の文化にあまり根付いていない論理的思考と情緒をパラレルで育むことができるのかと思うと厳しいのではないかと思う。

 私が考える日本的情緒というのは、簡単にまとめると「行間を読む」ということだ。俳句なんかがいい例だと思う。絵本などもそうかなぁ。行間を読むということを小学校の低学年から、高校まで旧来の国語教育では行ってきた。しかし、行間を読むということは一様に同じものをアウトプットできるかというと、そうではなかった。よく言われていることは、作者と意図しないことが正解とされ、作者が文句を言ったなどということがよくあるが、行間を読むことにはそれ相応の経験と体験が必要であり、同じ経験をしたとしてもアウトプットが違うことは人として当たり前のことで、それが積もり積もって日本的情緒となったのではないかと思っている。要は行間を読むことは、日本人なら誰でも出来ることではあるが、同じものが出てくるとは限らない、不確実なものなのだ。行間を読むこと自体が日本人らしさの象徴であるので、アウトプットの質は問わないのが本質ではないかと思う。行間を読んで出てきたものに正解も不正解もないということだ。

 行間を読むことの元となるスキルはなんであるか?私は「察する」ことだと思う。これは外国人には、特に論理的思考を体得するための教育を受けてきた人たちにはしんどいらしい。「察する」ことのひとつに共感があるが、外国人はこれが得意である。男女問わずにかなりの確率で正しく共感してくれる。しかし、それには言葉が必要だ。もちろん、ボディーランゲージというものもある。しかし、日本人の「察する」はちょっと違うように感じている。私自身、感じているだけなので、「これがこういうわけで……」と言えないのが歯がゆい。というか、私自身あまり明確に理解していないのかもしれない。ひとつ例を上げるならば、「美辞麗句」だろう。最近は悪しきモノとしてとりあげられることが多い。それは、断定的な判断が必要とされるべきモノに対しても日本人は「美辞麗句」を使っていたからであろう。役人が考える文章のように。けど、「美辞麗句」自体が悪いのではない。使い方を間違えているだけなのだ。そういう私も「美辞麗句」が好きだったりする。

 今まで日本の教育では論理的思考がかなり軽視されてきた。その反動で今はどこでもだれでも論理的思考を強く求めている。問題だと考えるのは、振り子が完全に振り切って論理的思考ばかりに目をやり、日本的情緒は悪しきモノとし排除されていることだろう。確かに、バランスは非常に微妙で繊細だと思う。最適なバランスというのを私は分からない。特に教育ではこのバランスが分からないためになかなか一歩を踏み出せないでいる実情もある。しかし、一歩踏み出してしまえば、なんの迷いもなく、100%で一方に進むのも教育である。危険性はここだろう。だれとてバランスを考える人がいない。いるのかもしれないが、聞こえてこない。書物には批評として反対意見が多数見受けられることもあるが、それは極端な例しか現われない。

 論理的思考の欠点は極端になりすぎて「あいまい」が排除されることにある。予定調和しか認めない風潮は危険だと思う。「ああなればこうなる」となると問題責任ばかりを追及する犯人探しが横行するであろうし、責任転嫁の逃げ道を懸命に探す輩もすでにいる。法の抜け道を探すことがその極端な例であろう。しかし、これが論理的思考の最大の欠点であることを「国家の品格」は呈している。

 もうひとつ。外国人が映画や絵画などのコメントを言うのを聞いたことがあるだろうか?彼らは何かしら明確にポイントを絞ってコメントをする。例えば絵画なら「大胆な筆遣いが力強さを表している。タイトルと呼応して素晴らしいねぇ」などなど。私はこのようなコメントを聞くたびにどうにもこうにも「薄っぺら」く聞こえて仕方がない。そんな単純な言葉で説明できるものなのか?といつも思い、コメントをした人の感受性の困窮さを嘆いている。もちろん、彼らがこのような何かしら必ず明確にポイントを指摘してコメントするという教育を受けていることを知っているので仕方がないことだと理解しているが、それでも違和感が残るのだ。これは、私が論理的思考を教育されていないからなのかもしれない。しかし、映画監督であったり、アーティストがコメントする際はこの限りではない。意外に、抽象的な言葉を使い、「そういうものなのだ」と思考停止言語を使うことも多々ある。しかも彼らはそれを英語で話している。

 論理的思考は絶対に必要なスキルであることは間違いない。しかし、それが絶対ではないことも同時に考えていかなければいけない。日本的情緒を捨てた英語を話せる日本人には価値はあまりないように思えるし、もったいないことである。

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