Monday, March 31, 2008

茂木健一郎 / 江村哲二 『音楽を「考える」』

 本書に、学校教育を嘆く件でこんなことばがある。少し長いが引用する。

江村 でも、翻って考えてみると、教育のやり方に問題はないかな。科学でも音楽でも、ほんとうの知的な喜びを覚えるような教育の場がない、というような……。
茂木 そうだね。小中学校の音楽教育がひどい。《ペルシアの市場にて》とか、《ペール・ギュント》とか、《ピーターと狼》とか、いわゆる「子ども向け」のクラッシックを聴かせている。どうして本物を聴かせないんだろうと思う。大人はああいう曲聴かないでしょう。
江村 日本人はすぐ「子ども向け」とか、「これは子ども対象」とか、言いたがる。これこそが世界に例を見ない日本特有の現象です。コンサートでも「子どものための……」とかあるけど、子どもって子どもだからこそ、スポンジのように吸収する豊かな感受性をもっていて、ものすごく純粋に聴いているものです。だからこそ本物のいいものをドーンと与えれば感動して帰る。(pp.132-133)

Amazon.co.jp: 音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書 58): 茂木 健一郎,江村 哲二: 本 本書はちくまプリマー新書である。子ども向けだ。しかし、上記のこころの如く「そんなの関係ねぇ」と知的欲求を刺激する対談本である。興味深いはなしが多いが、学校教育に絡めた話に注目する。

 上の引用は、私の気持ちでもある。私の場合は、音楽ではなく、英語だった。授業の英文が幼稚でたまらなかったのを覚えている。授業のディスカッションの際に、私は英語教育にはなしを変えて上記引用のようなはなしをしたことがある。しかし、反応は芳しくなかった。ひとりだけ反応が返ってたが、その人に妙な連帯感・一体感を抱いた。ここにいる人たちとは何か違うなと壁を作ってしまった出来事でもあった。

 反応が芳しくないひとの意見では、子どもを学習者として扱っている。建設的な学習システムとしては仕方がないと。確かに、一理ある。が、それは教える側の意見だ。教える側はシステマティックな教授法が都合いい。これも、分かる。しかし、どちらの都合を優先すべきかと考えれば、学習者である子どもだろう。

 いきなりガツンと難しいのをぶつければ嫌いになってしまうでないかという意見がある。確かに悩ましい問題だ。できれば好きになってもらいたい。が、これも考え方を変えれば無関心よりはマシではないか。無責任だと思われるかもしれないが、他人の興味を自由自在にコントロールできると考えるよりはマシだと思っている。

 こんなことを考えていると親の役割が重要になってくる。

茂木 音楽教育は、ある時点ででき上がったやり方を何の反省もなく続けているのが問題のでしょうか。その結果、小さい頃にいい音楽に出会えるかどうかは、家庭環境によってものすごく差ができちゃってますよね。(pp.135)

 私も同じようなことをここで言及したことがある。

NHK「変わる教育どうする教育」をみて

私がこの番組でいちばん惹かれたのは中谷日出解説員であった。中谷解説員は「美術や図工」の普及提言をしている。激しく同意だ。なぜか?格差を考えたときに如実に違いが現れるのがこの分野でなかろうか?学習塾に通える、通えないということよりも違いが生まれやすい。家計に「芸術費」などを繰り込む家庭は少ないだろう。その時点で格差が発生している。

 同僚が結婚し子どもができたときに、それとなしに言ったことばがある。それは、「これから教育費がかさむなぁ。酒は飲めないね」ということだ。同僚はちょっと考えて「なんで、幼稚園に行かせるつもりはなして、公立へやるつもりだから、そんなにかからないでしょう?」といった。

 私は続けた。「だって、小さいときにいろいろと経験させるのに、それなりにかさむだろう?」と。そうしたら同僚は、「あぁ、それは考えているから大丈夫だ。それより体力が心配だ」と言い切った。

 軽くショックを受けたのを覚えている。私がある程度、含みをもたせて言ったことばに対して、同僚はすでに込みで考えていた。これを格差と捉えるのかどうか、難しいところではあるが、少なくとも私はこいつはスゴイと思い、見直した。

 教育に限って書いてきたが、音楽に関する記述もいい。ピタゴラス、K465、サウンドスケープ、一回性など興味深いはなしが多い。

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