古山明男 『変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない』
どこかで見たことがあるとおもったからだ。
ビンゴ!
購読しているブログのタイトルであった。
そこの著者が書いているらしい。
変えよう!日本の学校システム
とてもおもしろい本であった。
「教育問題はシステムの問題」
この持論が展開されている。
私の常識だと、これは、
「ゼロベースで教育を見直そう」
となる。
これが本書の基本スタンスだ。
第2部がおもしろい。
目次
- 第1部 行き詰まった日本の教育
- 不登校は制度公害
- 入試制度の一人歩き
- 個性尊重の教育はできるのか 第2部 中央集権無責任体制 日本の学校システム
- 中央集権にして無責任
- 手足をもがれた教育委員会
- 院政体制を敷く文部科学省
- 教師の自主性が発揮されない学校
- 意見を言えない保護者・住民
- 『教育基本法』の精神 第3部 成熟社会のための教育システム
- 学校を作る自由
- イギリス型かフィンランド型か
- 教育費全面無償への道
- 教育主権在民の確立を
いまの教育システムを見てみると
「教育委員会はなぜあるのだろうか?」
とふと疑問がわく。
文科省と現場のパイプ役
にでもなっていればいいのだが、
パイプにすらもなっていない。
私はそう思っていた。
文科省、教育委員会、学校
この三すくみが諸悪の根源。
責任者が見当たらない。
文科省が責任者だろうと
思われるかもしれないが、
教育における指揮系列のピラミッドは巨大である。日本中の公立学校がひとつのピラミッドになっている。
文部科学省→都道府県教育委員会→市区町村教育委員会→学校
というピラミッドである。
ところが、このピラミッドには、頂点である文科省の位置づけがはっきりしないという、とんでもない問題がある。
「文科省は教育委員会に対しても学校に対しても正式な指揮権限を持っていない」のである。(pp.102)
なぜか?というと理由がある。
教育委員会は新制度の重要な柱であり、六・三制とともに発足するはずであった。しかし、教育委員会をどのようなものにするかで、どうしても議論がまとまらない。そのため、教育委員会の発足は六・三制より一年遅れる。この一年の差が大きかった。文部省がすべてを管轄する仕組みが先にできてしまい、それを裏付ける法令群もできてしまう。
そこに教育委員会ができてきたが、教育委員会の最大の仕事であるはずの「学校基準設定」と「カリキュラム作成」は、文部省が握って話さない。(pp.113)
文科省はいらない子だったのだ。
なので、存在意義を示し続けなければ
いけないのだ。
「文科省がいらない子だ」という解決法は
多くの人が考えると思う。
私も考えたが、すぐに他の手段を考える。
あまりにもコストがかかるからだ。
なぜなら、文科省ありきが
暗黙の前提となっているからだ。
なぜだかわからない。
少なくとも、私の常識ではそうである。
しかし法制定の時分、
文部省は教育普及のために適した機関であった。
教育における民意反映は、教育委員会に残された重要な仕事である。ところが、当時の最大の課題は、戦災復興と中学の義務教育化、高校の増設などであった。<略>「とにかく教育普及を」の時代であり、この時代は組織力と効率性が必要とされていた。民意反映の必要は、さほど切実なものではなく、むしろ教育委員会があることによる非効率が問題とされることが多かった。(pp.113)
この時代、この条件下での
文部省の存在は大きい。
しかし、政治問題なのか
官僚の権力争いなのか
文部省は教育実行者として
重い腰を下ろした。
教育とは文化現象であり、国家統制、官僚統制になじまない。教育者の使命は、宗教家、学者、芸術家などと同じ性質のものである。だから、学校が上級下級の行政官庁の命令系統の中に組み入れられてはいけないのである。学校は自治的に運営されるべきである。小学校から大学にいたるまで、学校の種類の間に、官庁のような上下関係があってはいけない。所管する官庁と学校との間にも、官庁的な上下関係があってはいけない。(pp.178)
上記の引用は、最近の教育者のことばではない。
教育基本法制定当時の田中耕太郎文部大臣の
教育基本法第十条の解釈である。
しかし、この法律解釈が戯言かの如く
綿々と不当な支配が続けられている。
勉強不足を痛感。
同様な書籍をもう何冊か読みたい。
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