Tuesday, August 07, 2007

「学ぶ」から「使う」外国語へ―慶応義塾藤沢キャンパスの実践

 本書は『日本人はなぜ英語ができないか』(鈴木孝夫著、岩波新書、1999年)で関口一郎氏という名前を知り手にした。

Amazon.co.jp: 「学ぶ」から「使う」外国語へ―慶応義塾藤沢キャンパスの実践 (集英社新書)

 読後、本書をGoogleで検索してみた。いくつか書評があったが、否定的なものが多かった。はたしてほんとうにそうだろうか?

 本書の勉強方法、そのものは決して目新しいものではないだろう。それは、本書が発行された2000年当時であろうとも同じだろうと考える。しかし、本題はそこではない。大学の外国語課程で、SFCのような試みが行われていることに、まず、驚かなくてはいけない。

 私は大学へ行けば、中学や高校のような英語の授業を受けずに済むと思っていた。しかし、それは幻想であった。好きな授業を選べると思っていたが、はじめから受ける授業が決まっており、先生も決まっている。なんだこれはと強く憤慨した。しかもそれは、週2コマ、2年間が義務付けられている。苦痛以外の何物でもない。ささやかな抵抗として、英語母語話者の先生の授業を英語IIIで受講した。成績云々ではなかった。

「自分の専門はシェークスピアである。この分野についてのみ自分は自身を持って教えることができる。それが学者の良心ではないのか」
 と叱られた。……だが、教える相手は別にその先生を選択したわけではなく、ただ、英語を勉強したいと願っているだけの学生たちなのである。(pp.216)


 私が不満に感じたものそのものである。

 最近では、特色GPとして英語のみに焦点を当てて外国語教育を工夫している大学は多い。本書によるとSFCでは、英語、仏語、独語、西語、中国語、朝鮮語、インドネシア語の7ヶ国語である。力の入れようが根本的に違う。英語のみだと変に窮屈になってしまうような気がする。ニコニコした脅迫のようだ。

 戦後日本の新制大学の外国語教育のゆがみのひとつは、高度な外国語教育は文学部か外国語学部でしか受けられない、というところになる。…(省略)…外国語に関心がある多くの若者は、将来国際的な環境で活躍したいと思い、そのために必要な専門の学問と外国語能力を身につけたいと願っている。欧米ではむしろそのほうが一般的である。(pp.128-129)


 私は不勉強で本書にあるような主専攻、副専攻というシステムが日本の大学にあるのかどうかは知らない。それどころか、この言葉をつい最近知った。とてもよい制度だとうなだれたのを覚えている。

 経済界ではこのような人物が欲しいのであろう。そのために、小学校からの英語教育やコミュニケーション重視の英語教育を強く推し進めているものと考えている。大学が変われば、小学校から英語などという声はなくなるのかもしれない。

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