Sunday, May 18, 2008

森達也 『いのちの食べかた』

Amazon.co.jp: いのちの食べかた (よりみちパン!セ): 森 達也: 本 理論社の「よりみちパン!セ」シリーズの1冊。この「よりみちパン!セ」シリーズは興味深いモノが多い。「パン!セ」とはどういう意味なのだろう。いまだに謎であるが、深く考えることではない。

 私は食育というものがどういった教育なのか知らないが、本書は食育の本ではない。私の知る限りではヨーロッパの国語教育に近いと感じた。

 本書は一貫して「知ること」への開眼を読者に求めている。

 本当かどうか知らないが、魚の切り身が川、海を泳いでいる絵を描いた幼稚園児がいたとか、いないとか。どのくらい年をさかのぼればよいのか分からないが、スーパーで売られているパック詰めのお肉を見て、牛や豚がどのようにパック詰めの商品になるのか考えていたものが、パック詰めから牛や豚を想像するようになった。逆問題とでもいっておこう。逆問題のほうが理解しやすいということは、社会システムが自然になったということだ。

 自然を考えるのは難しい。あたりまえを考えるのは難しい。

 あたりまえを大人は教えてくれない。公理だからだ。教えようがない。社会システムは時間が経つとたいていが公理へ昇格する。公理へ昇格するとたいてい思考停止に陥る。思考停止については昨今の報道を見ているとよく分かる。ガソリンの暫定税率問題はよい例である。中国の国内報道を疑問視する報道もいい例だ。

 思考停止にならぬようにするのには「知ること」が必要である。「知ること」とはどういうことだろうか?時間軸を逆行することかもしれないし、ある事象とある事象を線でつなぐことかもしれない。

 「行間を読む」ということばがある。それなら知っている。作者の気持ちや思い、本当に言いたいことだろう。そんなものではない。行間とは論理の飛躍のことである。論理の飛躍のない文章は、アナロジーの回文である。

 「知ること」とは論理の飛躍に「ひっかかる」ことだ。このことが、ヨーロッパの国語教育に近いと感じた理由である。

 「知ること」はスリリングである。自分が変わるからである。知ったあとの自分と知る前の自分は、同じ自分ではない。そして、不可逆である。知る前の自分には戻れない。「忘れるではないか」というかもしれない。確かに忘れる。しかし、見える風景は知った後の風景に他ならない。

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