Saturday, May 31, 2008

ミヒャエル・エンデ 『モモ』

Amazon.co.jp: モモ (岩波少年文庫(127)): ミヒャエル・エンデ, 大島 かおり: 本 10年ぶりに読み返してもやっぱり面白いすごい本だ、といいたいところであるが、初読である。読んでよかった。少しヴォリュームがあるなぁと思っていたが、児童書だから読みやすいだろうと楽観視していた。正解である。児童書の特徴なのかどうか、ひらがなと漢字のバランスが私の好み(?)ではないが、読みやすい。なによりも「一気に読みたい」、そんな気にさせる内容である。

 本を読んでいて、「怖い」という感覚が襲ってくるのは、私にとって珍しい。本書は読んでいて怖かった。読み終わっても、やはり怖い。なぜ怖いのか?フィクションであり、ファンタジーでありながら生々しい現実感を感じるからだ。これらの感覚は万人に共通らしい。

 たいてい「大人が読む本」というラベル付けである。もちろん、私もそう思う。が、エンデはなぜこのテーマで児童書を書いたのだろうか?読了後、このノートを書いている際に感じたはてなである。

 大人が読む本であれば、大人向けに書けばいいと思ってしまう。そういう児童書は少なくない。子どもも大人も楽しめる本が、本としてのひとつのゴールである。どこで見聞きしたのか忘れてしまったが、そんな記憶がある。

 本書は児童書である。子どもが読むことを前提にされている。子どもが読む本というのは大抵大人が選ぶ。ということは、大人が「これはよい」と思った本が子どものもとへ運ばれる。

 当時のヨーロッパが本書のような社会状況であったのかどうか、私には分からない。なので、日本に限ってみる。本書にある社会状況に向かって日本社会が作られてきたように感じる。時間を盗まれた人たちは、上辺だけの個人主義を全うしている人に似ている。モモが昔集まっていた子どもたちに会う場面は、私が子どものころに感じた「田舎と都会の関係」に似ている。この描写は気持ち悪かった。私の子ども時代は本書の単行本が発行されてから10年も20年も後のことである。

 児童書を選ぶのは大人である。現在の親の世代、もしくはその親、祖父母の世代は、本書を「これはよい」と思うだろうか?「江戸っ子も3代目から」ということばがある。

江戸っ子とは - はてなダイアリー

これは「粋」と言う東京文化が一代では理解できず、

  1. 祖父の代で江戸に入り「粋」を学ぶ
  2. 親は祖父から「粋さ」を受け継ぎ本当の意味で「粋」を理解する
  3. そして、ようやく3代目で「粋」な親の背中を見て育った子供が江戸っ子として認められる
のである。


 3代続けば少々無理なことでも「あたり前」のこととして定着する。こういう解釈もありだと思っている。本書の現在の売れ行きを私は知らない。もし、本書が絶版にでもなろうものなら、私は精神病棟で余生を過ごすことを選ぼう。

 「忙しい」の「忙」は心が亡くなると読める。ネットで調べてみたらこんなのがあった。

「忙」は他のものに心を奪われるので「わすれさせられる→それほどいそがしい」です。


 私はこの解釈が好きである。ドイツ語も同じような語の成り立ちなのかどうか、私には分からない。Business は、busy + ness という語の成り立ちらしい。busy にどのようなニュアンスがあるのか?やることがたくさんある状態とだけある。改めてみると、「忙」はうまいこと考えたなぁと感心しっぱなしである。

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