Monday, July 07, 2008

藤田英典編 『誰のための「教育再生」か』

Amazon.co.jp: 誰のための「教育再生」か (岩波新書 新赤版 1103): 藤田 英典: 本 「教育改革」ということばにどのような印象を受けるだろうか?ポジティブだろうか?ネガティブだろうか?このような質問自体ばかげている。

 本書は安倍政権が行った「教育再生」改革に対する警戒である。警戒どころではない。強い危機感と書いてある。なにがそんなに問題なのだろうか?それがトツトツと述べられている。

 まず学力テストについて。全国一斉学力テストは無駄どころが有害そのものである。学校の商品化、子どもと教師にストレス、新しい差別の危険というのが述べたれている。

 教員免許更新制については、教師の仕事が子どもや社会に対する「責任」から納税者への「サービス」へ変わったことがことの発端だとある。「サービス」へ変わったことが、指導力不足教師や不適格教師をクローズアップさせる。「こやつらをどうにかできないか?」というのが、教員免許更新制である。

国際的に見て、免許更新制を採用している国はアメリカだけです。<中略>アメリカは長年にわたって、大量の無資格教員の存在に苦慮し続けてきました。現在でも南部の州や都市部のマイノリティ居住区においては、無資格教員が三割に達する学区も少なくないという現実があります。免許更新制は、それらの教師に研修の機会を保障し、資格取得を促進するために必要な制度として機能しているのです。(pp. 74)


 ゼロトレランスについては、次のひとことに集約させてもよいと思う。少々長いが引用させていただく。

「子どもの権利条約の精神的な父」(ユニセフ)といわれるポーランドの孤児院経営者ヤヌシュ・コルチャックは、おとなの側の「自制心」こそが子ども同士の規範意識を育てる、と主張しました。<中略>子どもには「失敗する権利」「過ちを犯す権利」があります。<中略>能力上、経験上の未熟さから生じる数々の「失敗」「過ち」は、それ自体が子どもとしての特性であり、成長発達に欠かせない「糧」となるものです。もし、子どもの「失敗」「過ち」を許容する「寛容さ」が失われたら、子どもは人間として成長してゆく大事な機会を失うことになります。(pp. 114 - 115)


 学校選択制については、「強者の論理」による教育再編という。これについて、私は勉強不足で自分なりの咀嚼ができていない。なので、簡潔に書かれていることを述べると、「強者の理論」による教育再編は公立校のあり方を変えてしまう恐れがある。公立校は一元的なものさしで比べられるようになり、教育がゆがむ。

 心の支配については、06年の教育基本法改正により、政府であっても教育に対する党派的な介入を行ってはならないという、禁止法としての教育基本法の意義を大幅に取り除いた(pp. 147)ことに絡めて論が進む。

 私は以前、教育関係者には経済の知識が必要だと述べた。これは、フィンランドの教育改革が経済をうまく取り入れたと考えたからだ。本書で展開されている安部政権による教育改革は経済原理に基づいている。学校選択制などはそれほど悪いものには見えない。しかし、経済という補助線を引くとウラの顔が見えたような気になる。

 分かりきっていることではあるが、結局「なかのひと」の力ということになる。

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