養老孟司 / 佐治晴夫 『「わかる」ことは「かわる」こと』
Amazon のレビューがよかったので読んでみた。
とりとめのない「雑談」だ。そういうと悪い印象のようであるが違う。顔なじみの教授がふらっと入ってきて、「よう」などと挨拶をかわし、研究室の休憩スペースでコーヒーでも飲みながら雑談している教授たちのはなしを遠くから聞いているような感じであった。養老孟司氏、佐治晴夫氏の弟子が対談の仕掛け人ということもあって、そういう先入観もあったのかもしれない。
さて、内容であるが、まずは「はじめに」の文章にこころ打たれる。
とりとめのない「雑談」だ。そういうと悪い印象のようであるが違う。顔なじみの教授がふらっと入ってきて、「よう」などと挨拶をかわし、研究室の休憩スペースでコーヒーでも飲みながら雑談している教授たちのはなしを遠くから聞いているような感じであった。養老孟司氏、佐治晴夫氏の弟子が対談の仕掛け人ということもあって、そういう先入観もあったのかもしれない。
さて、内容であるが、まずは「はじめに」の文章にこころ打たれる。
わが国の文・理分割教育は、理系から伸びやかな感性を、文系からは美しい論理の言葉を抹消してしまいました。(pp. 8)
対談の仕掛け人である的場美芳子氏が、佐治氏から聞いたことばだという。何年前に的場氏が聞いたか分からないが、今現在でもこのことは生きている。なぜ生きているのかというと、学校システムが変わっていないからだ。
養老氏は教育界をこういう。
教育の世界というものが人間関係だけになったということが、よーく理解できた。これはまともな世界じゃないと思いましたよ。(pp. 69)
私はこの部分に共感する。この件で述べられていることは、大抵「無駄」とか「不必要」と思われているのではないか?『モモ』でも痛烈に批判している部分だ。モンスターペアレントということばがある。このような教育のつけではないかと考える。
佐治氏と養老氏の総括としてはこの部分だと思う。
佐治 だからそれはやはり、養老先生がおっしゃったことを繰り返すことになりますけど、「どうなんですか」と聞くということは、相手の話を聞いていないということであり、なおかつ考えていないということになるんですよね。裏返すとそういう表現になる。だから、そうやって聞くということはものすごく恥ずかしいことなんですよ。
養老 そういう感覚がないんです。(pp. 194)
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