安河内哲也 『できる人の教え方』
NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 : 「大人の学び」を科学する: 早稲田アカデミー・教師力養成塾に行ってきた!
というので、読んでみた。
著者の安河内哲也氏は東進ハイスクールの講師である。しかも、「カリスマ」である。確か、『AERA English』にコラムかなにかを書いていたと思う(不正確な記憶です。間違っていたらごめんなさい)が、それで予備校の英語講師なのだなぁということは知っていた。東進ハイスクールがどんなところだかは知らない。氏の著書ははじめて読む。なので、詳しいことは Wikipedia にまかせる。
安河内哲也 - Wikipedia
エピローグの「『モグリ教師』の私を育ててくれた人々」にこんな記述がある。
学生時代は教える仕事で忙しく、「教育心理」も「教育原理」も中途半端にしかきいていませんでした。大学4年生のころは予備校が忙しく休みがとれず、教育実習にも行けず、教員免許すらもっていません。(pp.222)
さて、内容は氏の我流の教え方である。我流と聞いてどう思うだろう。「なんだ」と思うか、「ふむふむ」と思うか。上記引用の発言でますます「なんだ」と思う方もあるかもしれない。
はなしは変わるが、重松清氏の発言は興味深い。重松氏は教育に関する著書が多い。そのためか、「教員免許も持っていないの」云々との反応が多いらしい。しかし、重松氏は教員免許をもっている。それを告げるとおとなしくなるらしい。
なにが言いたいか?教員免許が「なんぼのもんじゃい」ということである。だから、専門家にはもっと発言してもらいたい。最近では、苅谷剛彦氏や尾木直樹氏などが、ポピュラーでメジャーな専門家になりつつある。もっともっと発言してもらいたいのだ、私は。
なぜか?教育分野の研究はフィールドワークだからだ。
政治や外交に関することなどの街角インタビューなどをニュースで見ていて感じることがある。「なんで、みんながみんな、政治家や官僚みたいな目線で意見するのだろう」と。「もっと、身近な出来事でいいじゃないか。それをメタな知見にするのが政治家の仕事だろう」と思ってしまう。教育についても同じである。教育分野の研究はフィールドワークである。そのことを、私たちは理解しなければならない。
さて、内容であるが、そんなにスゴイことが書いてあるわけではない。おおよその人が、教える際に考えるであろうことが書かれている。ということで、「初心忘るべからず チェックリスト」のような扱いがよろしいと思う。なかでも、面白いものをいくつか
ある実験によると、講師が「この生徒たちの能力は高い」と思い込んで講義をした場合に、実際の受講生たちの能力よりもよい成果が表れたそうです。(pp.118)
プラシーボ効果かしら?どのような実験なのか、出典が明記されていないので分からない。まぁ、経験則から「あるだろう」とは言えそう。「感化力」と関係がありそう。
配布資料をマジックに喩えて
だからこそ、配布資料には、その日に教える「大事なこと」は書かないで、穴埋め形式にしておくのが鉄則です。(pp.107)
確かに、これなら生徒を講義に集中させられるとともに、資料が捨てられることもない。そしてこれには、
単語や熟語の意味を調べるであるとか、英文をダラダラと和訳してノートに書くといった行為は、一見、勉強のようにみえなすが、これは「勉強」ではありません。「作業」です。(pp.107)
という、氏の考えに則っている。
以下は、予備校講師の方がシビアな問題かもしれない。
人に教えるという行為は、規模の大小を問わず、ボロクソに言われ、ノイジー・マイノリティーの餌食になるのです。(pp.162)
これで、自殺した新任教師がいた。本書にある「70% の満足度がとれれば、100% みたいなものだ」(pp.160)ということばは、学校にはない。教師ひとり一人が、肌身離さず持ち歩いていなければならないことばなのかもしれない。
筆者のスゴイところは、これを実践していることだ。で、教員が予備校講師の学ぶことといえば、「勉強すること」に集約されそうな気がする。予備校講師は、とにかく勉強しているようだ。本書を読むと、それだけで、気持ち悪くなりそうなくらい勉強している。公立の教師と比較して、タイムスケジュール、シーズンスケジュールがどうなっているのか興味深い。昨日(4月1日)の『プロフェッショナル 仕事の流儀』にとりあげられていた中村勇吾氏のシーズンスケジュールは教師向けだと感じた。
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